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茂住衛さん(アフリカ日本協議会)に聞く―バマコのWSFに参加して(下)                             かけはし2006.4.3号

アフリカ開発と新自由主義経済

「バンドン会議から50年」新たなオルタナティブの模索

 今年のWSF(世界社会フォーラム)は、初めての試みとして多中心的開催を行い、西アフリカ・マリ共和国のバマコ、南米ベネズエラのカラカス、パキスタンのカラチの三都市で行われることになった。カラチでの開催はパキスタンを襲った地震のために三月に延期されることになったが、バマコ(1月19日〜23日)、カラカス(1月24日〜29日)のフォーラムは予定通りの日程で成功のうちに開催された。マリ共和国の首都バマコで開催された世界社会フォーラムに参加したアフリカ日本協議会の茂住衛(もずみ まもる)さんに話をうかがった。(本紙編集部)

南アフリカとその
他の国々の差異

――「南アフリカ帝国主義」論を展開しているのはジュビリー・サウスアフリカやAIDC(オルタナティブ情報開発センター)の人たちだけですか。

 そうですね。この認識がどこまで広がっているのかについてはよくわかりません。南アフリカではもともとCOSATU(南ア労働組合会議)がANCと協力関係にあったのに、自分たちの要求が満たされないわけですよね。失業率も改善されないし給料も上がらない。COSATUはANC打倒とは言っていませんが、中ではものすごく不満がたまっていることは予測できますし、ANC政権に不満を抱いている人びとには「南アフリカ帝国主義」という規定が受け入れられやすいと思います。国外に金融資本や多国籍企業が進出して売り上げを伸ばしているのであれば、国内で労働市場を作れ、そのためのカネをまわせという話になるわけですよね。そういう不満層は、南アフリカでは広範に存在しているでしょう。
 しかし他のアフリカ諸国では、反アパルトヘイト闘争を担ったANCの権威がまだ強かったり、開発をもっと地道にやっていかなければならないという意識があるから、同じ貧困や失業という問題に向き合っていてもリアリティーが違うところがあるのではないでしょうか。
 現状では「南アフリカ帝国主義」論については、対立しているというよりも、まだ未知数の要素が大きい。南アフリカには大きな労働組合があって労働者階級がいるけれども、他の国では農民の人口が圧倒的で、労働者の半分は公務員です。他の国では政府から自立した労働組合が組織されたことがあまりない。そういう意味では南アフリカと他のアフリカ諸国では、労働運動や社会運動の歴史やバックボーンが違う点もあるでしょう。

モロッコによる
西サハラの占領

――次に西サハラの問題についての対立もあったと聞きましたが。

 もともとスペインの植民地だった西サハラをスペインが放棄した時、モロッコが西サハラを占領し、またモーリタニアも西サハラの一部を自国の領土だとして占領しました。その後モーリタニアが撤退したので、現在西サハラは基本的にモロッコ軍の占領下にあります。一方、AUはOAUの時代に西サハラ(サハラ・アラブ民主共和国)を独立国として承認、そのことに抗議してモロッコはOAUを脱退します。つまり、現在のAU加盟五十三カ国の中にモロッコは含まれていません。
 ところが日本政府はモロッコと外交関係を結んでいるという理由で、西サハラを独立国として認めていない。一九九三年九月にアフリカ開発会議が東京で開催され、日本政府がアフリカ各国の首脳を招待したときに、日本の西サハラ支援団体や個人の連名で外務省に対して、西サハラの代表をなぜ会議に呼ばないのかという趣旨の公開質問状を出したことがあります。
 現在モロッコは、西サハラ領内の砂漠の中に延々と長大な壁を作り、監視所には軍が駐留。西サハラの独立運動を主導しているポリサリオ解放戦線の支配地域もありますが、多くの人びとはアルジェリアの難民キャンプに逃れています。モロッコにとっては、西サハラ領内に燐鉱石などの鉱物資源が豊富にあり、さらに領海内の海洋資源(タコの漁場などがある)も収奪できるので、西サハラの占領を止めようとはしません。
 EUの行政機関である欧州委員会とモロッコ政府との間では昨年、漁業協定が調印され、現在は欧州議会と理事会による批准手続きにかけられています。私が参加した西サハラ問題のセミナーでも、この漁業協定が焦点の一つになりました。EUがモロッコと西サハラ沖合の海域を対象とした漁業協定を結ぶということは、西サハラという国家の主権を認めないで、西サハラのモロッコ占領を容認するということを意味します。ヨーロッパの西サハラ支援の団体は現在、この批准の阻止に向けた運動を展開しているようです。
 WSFバマコでの西サハラ問題をめぐる対立は、モロッコからの参加者の一部が「西サハラはモロッコの領土である」という主張をしたことに帰因しています。「TERAVIVA」では報道されませんでしたが、南アフリカの独立メディアのウェブサイトから、WSFバマコの開会セレモニーの際に、モロッコの国旗を掲げたグループと西サハラの国旗を掲げたグループの衝突事件の映像を見ることができます。
 さらに私も参加したワークショップにも、モロッコ支援派のWSF参加者も来て、西サハラからの参加者の前で怒号をあびながら、大声で自らの主張をしゃべりまくるという事態がありました。彼らは、アルジェリアが西サハラ問題をモロッコに対する政治的取引の材料に使っており、難民キャンプを通じてアルジェリアが西サハラのコントロールを意図している、という典型的なナショナリズムに基づく主張をしていました。

問題を複雑にする
宗主国もアフリカ

――WSFの組織委員会は、西サハラ問題にどういう態度を取っているのですか。

 私の知るかぎりでは、組織委員会として特に態度表明はしていないようですね。ただしほとんどの参加者にとっては、西サハラが独立した国家主権を持つことは前提になっています。AUも西サハラを主権国として認めているのですから。日本で発行される世界地図には西サハラが表記されていないこともありますが、欧州で発行されている地図であればちゃんと国名と国境線が描かれている。そのことは、ある意味で国際的常識になっています。
 西サハラ問題は、アフリカに残された植民地問題でも最大のものです。しかも宗主国がアフリカの国だという非常に複雑な問題になっている。さらにこの問題は、宗教的な対立を背景にしたものであるとも言えません。モロッコと同様に西サハラの住民の大部分はイスラム教徒で、「サハラ・アラブ民主共和国」という国名からもわかるように、自らがアラブ世界の一員であるという意識が強い。一九七三年から独立運動を担っているポリサリオ解放戦線は、西サハラ地域の旧来からのエスニックグループの連合が中心になっているようです。さらにイスラム教徒であっても、女性が先頭になってしゃべるというようなオープンスペースもあります。
 西サハラ問題は、モロッコの占領地へのモロッコ人の入植やモロッコが長大な壁を建設、さらにアルジェリアにおける難民キャンプの存在という現状からすると、パレスチナ問題と類似した問題として捉えることができますし、西サハラ問題のワークショップでもそうした視点は提起されています。
 また歴史的な経緯からすると、独立を達成しましたが、東チモール問題と重ね合わせてみることもできます。ただしこの問題は、パレスチナ問題と比べても、国際的に注目されているとは言えません。

アフリカ内の紛争
を扱うことに慎重

――アフリカではスーダンやシエラレオネやコンゴなどでいわゆる内戦状況があるわけですが、それに対してどうするかというテーマはバマコのWSFでは話し合われたのでしょうか。

 私がプログラムを見たかぎりでは、スーダンの内戦についてのワークショップはありませんでしたし、スーダンからの参加者もほとんどいなかったのではないでしょうか。
 WSFでは「戦争と平和」のテーマを扱うときには、ブッシュによる戦争がメインで、アフリカなどの内戦に関しては正直に言ってあまり触れてないんじゃないかな。WSFバマコでは、コンゴ共和国(ブラザビル)の内戦に対して、市民社会の中から平和構築にどう関わったのかについてのワークショップはありましたが、全体としては参加者の側もあまり各国の内戦には首を突っ込まないということでしょうか。
 紛争予防と平和構築という点ではWSFバマコでも、OXFAMやアムネスティ・インターナショナルなどが世界的に展開している「コントロール・アームズ・キャンペーン」(小火器規制)についてのワークショップやブース出展がなされていました。またアフリカでは、内戦に関与させられている子ども兵の存在が注目されはじめており、ウガンダやルワンダなどでは元子ども兵リハビリテーションセンターなども作られてます。

スラムもなく夜間
も歩けるバマコ

――初めて訪れたマリやバマコの率直な感想はどうでしたか。

 バマコという都市での生活は、旅行者の感傷かもしれませんが、きわめて過ごしやすいという印象を持ちました。その理由の一つは、極端な貧富の格差や暴力に直面したり、犯罪に会うかもしれないという緊張感をあまり感じなくてすみ、夜間でも安心して路上を歩けるからです。
 マリは統計では世界の最貧国で、特に地方の農村では沙漠化や食料危機の問題もありますが、たとえばバマコには目立ったスラムがない。また、路上で物乞いをしている人は見かけましたが、その数が特に多いともいえません。
 ナイロビには高層ビルの並ぶ中心街の周辺にキベラなどの巨大スラムがありますし、一九九九年に訪れたケープタウンの中心街や富裕層の居住地域では、夜間に路上を歩いている人はほとんど見かけませんでした。マリでは貧しいながらも格差がまだ小さい、皆が平等に食えたり、障がい者でも社会の中で生きていける相互扶助的システムがあるのではないか、という印象を受けました。こうした相互扶助的な生きやすさは、マリ以外に訪れたことのある西アフリカのブルキナファソやセネガルでも感じることができました。
 それから空港からバマコ市内に向かうときにまずびっくりしたのは、道路が整備されていて、舗装に穴があいていない、道路沿いの照明もすべて点灯していたということですね。
 一九九九年にマラウイの首都リロングウェを訪れたときは、舗装してる道路でもいたるところに穴があいていたし、空港から市内に向かう道路は照明設備があっても、夜になると真っ暗だと言われました。この現象は電力不足が理由ではなく照明のメンテナンスがあまり行われていないからだと推測できます。これに比べてバマコでは、この点でのインフラやメンテナンスがしっかりしていて、市内の道路も半分くらいはきれいに舗装されていました。ただし、街中の水路はゴミだらけで、ヘドロ状態になっていましたね。
 道路インフラがきちんとそろっている背景として、一つにはマリ国内に世界遺産が四つあり観光に力を入れていること、あと一つは国の支配者のふところにカネが入ってしまうのではなく、政府が機能しているためだろうと思いました。このことは、一九九〇年代前半までのアフリカ諸国を知っている人には、いくらかの驚きをもって受け止められることでしょう。またWSFバマコに集まってきた人びとも、マリ政府に対してはあまり反政府的ではない(笑)。ベネズエラのチャベス政権と立場は違っても、マリ政府もWSFに協力的なのではないかとも思いましたね。
 またWSFバマコの開催に際して、マリ政府がいくらか資金援助をしたという話も聞きましたが、資金の多くはOXFAMやアクション・エイドなどの大手国際NGOに頼ったようです。国際的に活動するアフリカのNGOも、先進国側のファンドに依拠して活動していることが多いので、その点は今後の問題になってくるかもしれません。

今も続く「パンアフ
リカニズム」の思想

――ポルトアレグレでもムンバイでも政党と社会運動との関係は論議の種になってきたのですが、そういうことはなかったんでしょうか。

 正確な事情はよくわかりませんが、WSFバマコでは政党の色はほとんど感じませんでしたし、マリでの政党間の深刻な対立という話もあまり聞いたことがない。マリもふくめて一九八〇年代までのアフリカ諸国の多くは一党制でしたが、それ以後は複数政党選挙が始まりました。そのことが逆に深刻な政党間の対立を生み出したという場合もありますが、マリではそうはならなかったようです。国内が安定していて安全だということが、WSFがバマコで開催された大きな理由の一つになっているのではないでしょうか。
 一方で二〇〇七年のナイロビでのWSFは、今回といくらか事情が違ってくるかもしれません。独立以降のケニア政府は一貫して親西欧的な立場をとってきましたし、二〇〇二年に独立後はじめて野党から選出されたキバキ大統領下でも汚職や政治腐敗の解決があまり進展していない、昨年十一月には政府が提案した憲法改正案が国民投票で否決された、などの状況があります。
 また、私はまだナイロビに行ったことはありませんが、ナイロビの街の雰囲気はバマコとはかなり違っているのではないかと予測しています。
 またWSFバマコで感慨深かったことの一つとして、ユースキャンプの名称が「トーマス・サンカラ」になっていたことがあげられます。トーマス・サンカラはマリの隣国のブルキナファソにおいて、大尉であった一九八三年にクーデターを起こして大統領に就任しますが、一九八七年にクーデターで暗殺されるまでの間の政治実績によって、今でも西アフリカの人びとには高い評判を得ています。彼の実績の一つは、汚職や政治腐敗を追放して、政府を政府として機能させたこと。もう一つは国名を変えたことです。ブルキナファソの以前の国名は、フランス語で「ボルタ川の上流」を意味する「オートボルタ」でした。それを彼は、ブルキナファソの主要民族であるモシとジョレの二つの言語をい合わせて、「高潔な人びと」を意味する「ブルキナファソ」という国名に変更しました。このことによって、ブルキナファソの人びとの尊厳の回復と国民的な融合をはかろうとしたわけです。
 その彼の名前が、WSFバマコのユースキャンプの名称として生き続けている。さらにバマコの市内には、クワメ・ンクルマ(ガーナの初代大統領)の大きな像もあります。これらのことからは、独立直後に全盛であったパンアフリカニズムの思想やアフリカに希望を与えた人たちへの尊敬や夢がまだ残っていることがうかがえますね。
 現実にはパンアフリカニズムの思想は実現せず、経済成長が達成できなかったことによって、ガーナのンクルマやタンザニアのニエレレなどによる「社会主義的」な政策(私はむしろ「共同体主義」といった方が正確だと思いますが)を採用していたアフリカ諸国でも一九八〇年代からは世界銀行やIMFの推進する構造調整計画を受け入れました。それにもかかわらず、これらの政治家の名前が尊敬とともに記憶され続けてているという点に、私はある種の感慨を覚えました。
 また開会セレモニーの会場にも、モディボ・ケイタ記念スタジアムという名称がつけられています。モディボ・ケイタは独立後のマリの初代大統領で、一九六八年にクーデターによって逮捕されますが、一九九〇年代に復権(彼自身はすでに死亡していましたが)します。彼の政策も「社会主義」とパンアフリカニズムに基づくもので、結果的には失敗しますが、旧宗主国であるフランスの通貨フランス・フランと連動したCFAフラン(西アフリカと中央アフリカの通貨共同体の通貨)圏から脱退し、独自の通貨の発行も試みました。
 これらの政治家の政策に共通するのは、パンアフリカニズムの思想を体現しようとした、旧宗主国などの西欧世界に対抗する政策を打ち出した、「社会主義的」な政策を採用した、さらに一方では強権的な政治を実施したということでしょうか。
 そして、こうした政策が現実には各国において継続されなかった、もっとストレートにいえば「失敗」したにもかかわらず、西欧世界の支配と対抗しアフリカの自立を追及した(その点ではナショナリストでもあったと言うことができるでしょう)ヒーローとして、特に西アフリカの人びとや政府の間では、未だに尊敬の念をもって受け入れられているという一面があります。
 こうした社会意識の存在をふまえて、改めてWSFバマコを振り返ってみると、「バンドン会議五十年」という位置づけも強調されていたことが注目されますね。現在のグローバリゼーションの時代において、あえて五十年前の「非同盟運動」の希望を再生しようと訴える。これを単なる「夢物語」として片づけるのではなく、世界社会フォーラムの基本的な共有点として追求されている「もうひとつの世界」の具体化に向けた一つの契機として捉え返すこともできるのではないでしょうか。
 現在のグローパリゼーションの負の影響力を最もストレートに受けるであろうアフリカにおいて世界社会フォーラムを開催することに、それ自体として重要な意義があることは明らかです。その上で、「バンドン会議五十年」という位置づけがなされていることについても、反グローバリゼーション運動を担っている活動家がどのように受け止めるのかが問われてくると思います。(2月6日)

【訂正】本紙前号(3月27日号)6面「バンドン会議から五十年」の記事、4段右から12〜13行目の「サスヌゲン」を「サス・ンゲソ」に、15行目「コナテ」を「コナレ」に、16行目の(2006年2月)を削除します。


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