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寄稿 世界社会フォーラム・カラチに参加して A      かけはし2006.4.24号

地域の力学を結合し、より大きな反グローバル化運動を

寺本 勉(ATTAC関西会員)

カラチでの初めての朝

 三月二十六日、カラチでの初めての朝を迎えた。前夜は、先着していたATTAC京都のKさんやWSF日本連絡会事務局のSさんの部屋を訪れ、オープニング・セレモニーの様子やインターネットの接続状況などを聞いたりした後、自分の部屋でパソコンやデジタル・ビデオのバッテリー充電に苦闘した。事前に日本橋の電器屋街で、パキスタン使用の電源タップを購入していたのだが、実際に試して見るとコンセントの形態が違っていて、結局テレビに接続している延長コードの先で何とか用意してきたコンセントと適合したタップを見つけて、無事充電にこぎ着けることができた。
 宿舎のガルフホテルには、パキスタン各地、ネパールやインド、日本、ヨーロッパなどからのWSF参加者が多く滞在していて、朝食の際には狭い食堂は一杯という状況だった。このホテルは、滞在中に頻繁に利用したネット・カフェの従業員によれば「VIP。五つ星」らしいのだが、それはあくまでサダル地区内での評価ではあっても、それなりにキチンとしたホテルではあった。もちろんバスタブなどはないのだが、一応湯が出るということで、汗まみれになった身体には有り難かった。バイキング形式の朝食は、客用のスプーンとかは用意されておらず、私が間違えて使っていたのは取り分け用の大きなスプーンだとKさんに指摘されてしまった。
 朝食後、日本からの参加者四人でタクシーをつかまえて(というか、つかまえられて)、会場へと向かった。当然と言うかタクシーにメーターはなく、目的地までの運賃は交渉次第である。聞いたところでは、黄色く塗られたタクシーは韓国資本で、現地資本の黒色のタクシーと市場を二分しているらしい。
 韓国資本の黄色いタクシーは当然韓国車を使用しているが、黒いタクシーは二十年くらい前に日本で乗られていたタイプの日産サニーが中心だった。黄色のタクシーは、運転手が業者からローンで車を買い取り、日々の売り上げからローンで返済する仕組みだが、実際には車の故障も多く、ローン返済が滞ってリキシャーに逆戻りする運転手も多くなっているのが実態だと言う。

WSF会場と南アジア時間

 会場近くになるとさすがに、道沿いにWSF関連の垂れ幕やポスターが貼られ、WSFらしくなってくる。会場入り口のセキュリティーチェックは、入るところが男女別々になっていて、パキスタンがイスラム教中心の国であることを改めて実感させられた。入り口の外には、自動小銃を持った警官が警備している。しかし、この警官たちはいたってのんびりムードで、写真を撮らせてほしいと頼むと、断るどころか改めてポーズをとり、笑顔でカメラに向かう有様だった。
 私たちは、各セミナーなどの開始時刻とアナウンスされていた九時半には会場に到着したのだが、会場内は人影もまばらというで、現地のグループらしい集団がデモ行進をしながら入場してくるのが、辛うじてWSFらしい雰囲気を作り出すくらいだった。
 WSF組織委員会の主催するメイン・プレナリー(全体集会)が開かれる(とプログラムには書いてある)スタジアムに入ってみたが、参加者もパラパラで全く始まる気配はない。観覧席では、テントの設営作業が続いているし、音響設備の整備中でもあった。このあたりのいい加減さが南アジアらしいというのだろうか? あるテントで会ったパキスタンの参加者は、「九時半と書いてあったら、まあ十一時に始まるかな」という言い方で、あまり遅れているのを気にしている様子もない。
 十一時頃になるとさすがに人通りが多くなってくる。各テントでのセミナーも始まりだした。キャンセルされたものも多いらしく、セミナーが行われているテントはどこも大入り状態であった。催しの宣伝ビラもあちらこちらで撒かれ、ようやくWSFらしい雰囲気になってきた。会場のあちこちで、さまざまなグループが隊伍を組んで、横幕を先頭にデモ行進するというのは、南アジアのフォーラムではおなじみの光景ではあったが、この日の会場内を見た限りではネパールやバングラデシュのグループなどが頑張っていたものの、その数・多様さではややムンバイよりは少ないというのが実感だった。

多彩なメイン・プレナリー

 しばらくメイン会場で待っていると、カシミール独立派の人たちがスローガンを叫びながら、壇上付近に入ってきた。旗やプラカードを掲げ、口々にシュプレヒコールを叫んでいた。このプレナリーがインド・パキスタン関係をテーマにしていたからだろう。結局、プレナリーは三時間遅れて、十二時半頃に始まったらしい。
 WSF組織委員会が主催するプレナリーは、毎日、午前・午後・夜間と三〜五回ずつ企画が組まれていた。その内容を紹介すると、三月二十五日に「女性:家父長制と社会的変化」「国際漁民デー」「利益と戦争の政治学」「災害管理」、二十六日には「パキスタン〜インド関係」「軍国主義化、衝突、平和」「尊厳フォーラム」「都市問題」「政治と宗教」、二十七日は「政治的、社会的運動」「民衆抵抗運動」「共同の利益対土地の権利」、そして二十八日には「9・11後におけるアメリカによる家族の権利の剥奪」「世界銀行、WTOにNOを」「WTOと新自由主義に対する闘争」「メディア・フォーラム」といったテーマであった。
 ポルトアレグレでは、組織委員会の主催する催しは一切なく、参加団体の自主的なセミナー・ワークショップでのみWSFが構成されていたが、今回は従来のやり方に戻ったようだった。このプレナリーのラインアップを見ても、南アジアに固有の問題とWSFにおいて継続して議論されてきた国際的な枠組みの問題とが混在しているのが見てとれる。

労働者の状況と労働組合

 それでは、パキスタンにおける労働者の状況はどのようなものだろうか。パキスタンの人口は一億五千万で、カラチにはそのうち千四百万人が集中している。その中で実際に仕事についている人の数は人口の三〇%以下、そのうち半分は農業部門である。このように他国と比較して、パキスタンの統計上の労働力人口の少ない理由は、出稼ぎ労働者や統計上に表れないインフォーマルセクターに従事する労働者が多いことだけでなく、女性労働者が統計上の労働力人口に極めて少ない数字でしか現れないためである。
 労働力調査(1996/97年)によると、女性の労働力率は九%と極めて低い。ただし実態は異なり、農業部門における賃金の伴わない家畜の世話や綿花栽培などは女性の仕事となっている。また、不完全就労者と呼ばれる低所得者が広い範囲で存在し、就労人口の約一〇%を占めるといわれている。こうした不完全就労者は地方に多く存在し、都市部に流入してくる現象が起きている。また、じゅうたん織り工場などで児童労働が多く見られることや、特に中東産油諸国への出稼ぎ労働者が多いことも特徴といえる。
 こうした労働者の置かれた状況の中で、労働組合に組織された労働者は約百五十万人にすぎない。これはパキスタンの労働法においては、多くの民間部門、団体、農業部門、インフォーマルセクターで労働組合の活動が認められていないことや軍事政権の下で労働組合運動が弾圧されてきたことに大きな原因があると言われている。
 労働組合のナショナルセンターは、多くが政党別に組織されており、会場で聞いた話では二十五のナショナルセンターがあると言う。その中で、比較的大きなナショナルセンターは三つあり、いずれも国際自由労連に加盟している。そして、この三つ、パキスタン全国労働組合連盟(PNFTU)、全パキスタン労働総同盟(APFOL)、全パキスタン労働組合連盟(APFTU)は、二〇〇五年九月にパキスタン労働組合連盟(PWF)を結成した。また、主な九つのナショナルセンターは、パキスタン労働者総連盟(PWC)を連合体として組織しており、パキスタン労働党の活動家もこのPWCの中で活動していた。
 今回のWSFカラチでセミナーを主催していたり、セミナーで発言した労働組合は、パキスタン労働党系の全国労働組合連合(National Trade Union Federation Pakistan)の他に、全パキスタン労働組合連合(APTUF)、全パキスタン労働組合会議(APTUC)、パキスタン労働組合連合(PTUF:世界労連所属で全国労働者党系)などがあった。主要三ナショナルセンターは、直接にはWSFに参加していないようであった(注)。

関心が高いカシミール問題

 いったんホテルに帰り、近くのネット・カフェからATTACの速報ブログにレポートを送った後、WSF会場に戻ると三時過ぎだった。午後のイベント開始時刻は二時半なのだが、午前中の様子を見ていると時間通りに始まるとは到底信じられないため、遅くてもいいやということになってしまう。メイン・プレナリーのインド・パキスタン関係をめぐるフォーラムはさすがに関心が高いのだろう、スタジアムのアリーナ部分の椅子はほぼ埋まっていた。カシミール問題が議論の中心で、スピーカーもインド・パキスタン双方のカシミール地域の活動家が多かった。しかし、私が行った時には最後のスピーカーが話していて、全体像をつかむことはできなかった。
 メイン・プレナリーにはもう一つ、ディグニティー(尊厳)・フォーラムものぞいてみた。南アジアにおけるカースト制度、女性に対する差別などの問題を扱っていたのだが、スピーカーの多くがウルドゥー語で話し、英語の通訳がつかない場合もあって、内容がつかめない。アフガニスタンにおける女性をとりまく状況についてのセミナーに行ってみると、こちらはスピーカーが英語でわかりやすかったのだが、どうも定刻から始めたらしく、これも最後の方を少し聞けただけだった。
 結局、私が事前に参加したと考えていたセミナーがキャンセルされていたり、他のセミナーと一本化されていたりと、目標を決めて参加しないとただ歩き回ることになるという、これまで数回参加したWSF(アジア社会フォーラムを含めて)の教訓を生かしきれない結果となった。ただし、キャンセルの理由の中には、パキスタン政府がインドからの参加者にビザを発給しなかったため、という理由もあり、ムンバイWSFでインド政府が行ったパキスタン活動家に対するビザ制限への報復なのだろうか。
 この日は日曜日ということもあってか、午後の会場は参加者であふれていた。各グループのデモ行進もいくつもあり、それらはプログラムにも活動の形態として「ラリー」として掲載されている。私が見たのは、子どもの権利を要求するデモ、大型ダム建設に反対するデモ、パキスタン軍事政権を批判するデモなどである。六時頃になり、午後のセミナーが終りに近づくと、会場の芝生や休憩所、道路などが参加者で一杯になった。   (つづく)

(注)パキスタン全国労働組合連盟(PNFTU:Pakistan National Federation of Trade Unions)は一九六二年に設立。二〇〇二年現在の組合員数は公称二十万人。全パキスタン労働総同盟(APFOL:All Pakistan Federation of Labour)は一九七一年に結成されている。二〇〇一年現在の組合員数は公称三十八万人。全パキスタン労働組合連盟(APFTU:All Pakistan Federation of Trade Union)は一九七二年に設立。二〇〇二年現在の組合員数は公称五十九万七千人。パキスタン労働運動については、「アジア地域における労使関係」(経団連、2003年7月22日)や国際労働財団HP「海外の労働事情」参照)。


世界社会フォーラム・カラカス
ベネズエラに吹きわたる「赤い息吹」
                      セバスチャン・ビレ

チャベス大統領
が集会に参加

 多中心的な二〇〇六年世界社会フォーラム(WSF)を構成するベネズエラの首都カラカスでのフォーラムは、一月二十四日から二十九日にかけて行われた。他に例のないその特質は、ベネズエラが経験している革命プロセスの中心で開催されたという事実から生み出されたものである。今回のフォーラムは、この革命プロセスの深さ、グローバル・ジャスティス運動の活力、国際的連帯の重要性を示すものとなった。
 ベネズエラでの第六回WSFは成功した。出席した幾万ものラテンアメリカや欧州からの参加者は、国中に吹きわたるラディカルな風を感じ取った。
 WSFは死んだとか、社会民主主義に吸収されるという絶えることのない予言は、実現されなかった。WSFは自らの道を歩み続けており、カラカスで赤い息吹を受け取った。

戦略の問題が
討論の中心

 しかし今回のWSFは何らかの選択を行ったわけではないが、チャベス大統領は、一月二十七日の集会に出席した一万五千人に向かって自らの意見を述べることをためらわなかった。この演説はTVで放映された。彼は基本的に、新自由主義とそれがもたらす戦争という攻撃に対して行動することを強調している。
 ベネズエラの社会運動は、明らかにWSFの公式の枠組みの中に含みこまれず、開会行進参加者の多くは外国からの代表によって占められていた。主要な労働組合組織である全国労働者連合(UNT)の不在が目立っており、WSFはあまりにも政府が組織したイベントになっているのではないかという疑いを持たせた。
 しかし公式枠組みの周辺では、地域近隣住民組織、都市部の各区域、工場の中での連携が作りだされた。ラベガ区の住民たちとの会合、二百四十人の女性労働者が占拠しているSEL―FEX工場へのオリビエ・ブザンスノー(仏LCR〔革命的共産主義者同盟〕の前大統領候補)の訪問、フエルテ・エル・ツナ文化プロジェクト(自主管理され自治体の財政的支援を受けている)への訪問、赤い服を身にまとった活動家たちが参加した旧市街の街頭での討論、協同組合から参加した人びと、TV番組への参加――こうしたことすべてが、抵抗し、そして資本主義にラディカルに対決する社会を建設するために国際主義が重要であることを、われわれに確認させるものであった。ここカラカスでは、それを社会主義と呼ぶことをだれも恐れてはおらず、戦略の問題が討論の中心に据えられている。
 われわれは何百人もの人びととこうした問題を討論した。「革命と社会主義党」は、政府に参加しているセクターであり社会的活動の組織者である「われわれのアメリカ――四月十三日運動」プロジェクトの活動家とともに、われわれが討論した組織の一つだった。そしてそれにより、現に作動している革命的プロセスと、われわれの連帯と協力の活動がとるべき形態についての理解を改善できるものとなった。

ブラジルの行方
とベネズエラ

 ベネズエラは、最近の成功と、来るべき時期に直面するだろう巨大な挑戦を世界に示すことができた。またWSFは、ベネズエラと世界の他の国々との直接的連帯を増大させる役割を果たしている。政府と民衆運動の両面でのラテンアメリカにおける左翼の高揚、ボリビアのエボ・モラレスが政権について採用した最初の措置、そしてブラジル情勢と関連した討論は、反帝国主義闘争にかかわる諸問題がたんなる構えではないことを意味していた。それらの結果はただちに現れる。
 ラテンアメリカの情勢は刺激的であり、可能性と危険に満ちている。この可能性は、大衆の政治意識のレベルにおける発展と結びついている。そして危険は? ベネズエラとボリビアにおけるよりラディカルで、より変革的な構想と関連して、「改良なき改良主義」が優位に立つ政府を見ることになるという危険が、とりわけ存在している。ルラのブラジルは、困難な局面をくぐりぬけており、その結果はラテンアメリカ大陸全体に巨大な重みを持つことになるだろう。
 チャベスにとっては、軍事的意味を持つ大国ブラジルと米国の枢軸が形成されることを回避するために、左翼――たとえそれが社会自由主義であっても――の勝利が絶対に必要である。しかしチャベスは、プラジル政府が真の挑戦を遂行する能力についていかなる幻想もばらまいてはいない。
 最近、政府与党の労働者党(PT)を離脱してPSOL(社会主義と自由党)に参加したブラジルの神学者プリニオ・サンパイオが簡明に述べているように「チャベスの最大の問題の一つはルラである」。
(筆者セバスチャン・ビレは、カラカスWSFへのLCR代表団の一人。彼はこの三年間、かなりの時間をベネズエラでの活動に振り向けている。)

(「ルージュ」2月2日号初出、「インターナショナルビューポイント」電子版06年2月号)                                      


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