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映評『ミュンヘン』  スティーブン・スピルバーグ監督・制作                                   かけはし2006.3.6号

「知性と理性の復権」をさぐる道筋「
暴力の連鎖」を生み出す世界の現実を問いなおす

「黒い九月」の五輪選手村襲撃事件

吹き飛ばされ
た私の先入観

 スティーブン・スピルバーグの新作『ミュンヘン』は、『シンドラーのリスト』(93年)『プライベート・ライアン』(98年)に続く「戦争とユダヤ人」を描いた作品群の流れの一つとして位置づけられるだろう(『プライベート・ライアン』はユダヤ人問題そのものを描いてはいないが)。
 白状すると、筆者は「一つの生命を救うことが世界を救う」というセリフによってイスラエル建国の正当化に結びつけた『シンドラーのリスト』や、「正義の戦争であっても犠牲は悲しい」と米軍の「自軍の死なないハイテク戦争」を賛美するかのような『プライベート・ライアン』のように、「親シオニスト」スピルバーグが「痛ましく悲しい犠牲の上にイスラエルは存在している」というメッセージを込めた映画なのかな、という偏見をもってこの『ミュンヘン』を観た。しかし、そんな先入観と偏見は、この映画の持つ「凄み」と「深み」によって粉々に吹き飛ばされた。

いまも残され
る「事件の謎」


 一九七二年のパレスチナ・ゲリラ「黒い九月」のミュンヘン・オリンピック選手村襲撃によってイスラエル選手団十一人が殺害される。イスラエル情報機関モサドの職員であるアヴナー(エリック・バナ)は、当時のイスラエル首相ゴルダ・メイアから直々にミュンヘン事件の首謀者と認定したパレスチナ武装勢力十一人の報復・暗殺を依頼される。
 ほかの四人の仲間とともに、一人また一人と「標的」を殺害していくアヴナーたち。しかし、パレスチナ側のさらなる報復も激化していく。そのさなか、アヴナーの一団が使用していた隠れ家で、パレスチナ武装勢力と鉢合わせ、一夜をともに過ごす(アヴナーたちが使っていたフランス人情報屋の策略によってか? スピルバーグは、この作戦に従事した者に聞き取りなどを行い史実を忠実に再現しているとのことだが、本編中で答えをぼかしている事柄が多い。そのあたりは当事者にとっても今もって「謎」なのだろう)。
 自らを「ドイツ赤軍」と偽ったアヴナーとパレスチナ・ゲリラが語り合う。
 「パレスチナ人はそんなに国がほしいのか?あんな何もない土地に?」「ほしい。ユダヤ人が建国するまで何年かかった? われわれはいつか必ず成し遂げる」。パレスチナにはパレスチナの大義があることを知るアヴナー。しかし、翌日の武装勢力幹部襲撃と銃撃戦で、このパレスチナ青年を射殺するアヴナー。
 果てしない殺戮と報復合戦の緊張感と恐怖と消耗から、自らの任務に疑問を持ちはじめるアヴナーたちもまた、狙われる立場になっていく。また、CIAが「黒い九月」に肩入れしている事実を知り、誰が味方で誰が敵なのかも分からなくなっていく。アヴナーの一団も五人のうち二人が殺害され、一人は爆弾製造中に誤爆死する。イスラエル政府すら信じられなくなったアヴナーは、任務から離れ妻子とともにニューヨークに移住する。

内面に投影さ
れていく恐怖


 スピルバーグは相変わらずのリアルで陰惨な「殺人描写」を行っているが、それはそのままアヴナーたちの「内面に投影されていく恐怖」と化していく過程の描写として成功している。
 アヴナーはミュンヘンで殺害された選手団を我がことのように心を痛めている。アヴナーの仲間たちは、南アフリカ出身のスティーヴ(ダニエル・クレイグ)は「他人のことなんぞ知っちゃいるか。大事なのは俺たちだけの血だ。ほかの民族なぞどうでもいい。俺たちだけよければいいんだよ!」と叫び、カール(キアラン・ハインズ)は、志願して第三次中東戦争に従軍した「熱烈な愛国者」たちだ。しかし、殺人と報復の過程で、「熱烈な愛国者」たちの大義すら、その精神とともに崩壊していくさまは、「暴力によって高潔な精神も荒廃していく」ということとともに「人命に勝る正義・大義などない」ということをスピルバーグは明確に描ききった。
 ラストで、ニューヨークに移ったアヴナーに任務復帰を促すモサド幹部エフライム(ジェフリー・ラッシュ)の要請に、アヴナーは「報復の果てに平和があるとは思えない」と言って復帰を断る。劇中で語られた数少ないスピルバーグの明確なメッセージだろう。常々「僕の祖国は君(妻)だけだ」と語っていたアヴナーだが、イスラエル政府すら自分と家族を狙っているかもしれないという不信と妄想の中で、最終的に「イスラエル」という「祖国」を捨てて、「家族という祖国」を選択する。
 スピルバーグお得意の「家族主義」にストーリーを集約していると思う向きもあるだろうが、映画の最後をありし日の世界貿易センタービルの二つの影の静止映像で締めくくることで、その「家族という祖国」にすら、やはり「安全」など保障されていないことをスピルバーグは暗喩する。この映画は「戦場なき戦争映画」だ。そして、この世界がいつ、どこが「戦場」と化すか分からない時代であることを観客に想い起こさせる。
 アヴナーのグループの爆弾担当であるロバート(マチュー・カソヴィッツ)が任務から離れる際、アヴナーに言う。「俺たちユダヤ人は高潔な民族のはずだ。その魂を忘れるなんて…」。スピルバーグもまた、「9・11」とそれに続くアフガン、イラクへの「報復」に名を借りた戦争、そしてこの映画で描かれたイスラエルによる「暗殺政治」そのままに、今も続くPFLP議長アリ・ムスタファやハマス最高幹部ヤシンなどへの暗殺を含む「殺戮と報復の主体たるイスラエル(ユダヤ人)」という時代状況に耐えられなくなったのであろうことを、この場面は示している。しかし、「暴力の連鎖」がさらに激化しているこの「時代状況」そのままに、ラストの沈み込む夕陽が象徴するように「解決策」も「希望」もなくこの映画は終わる。

正義は手段を
正当化しない


 映画オープニングの「オリンピック村襲撃」を報道するテレビの場面で、固唾を呑んで見守るイスラエル側と対照的に、テレビの前で歓喜の声を上げるパレスチナの難民キャンプの様子もこの映画は映し出す。パレスチナ側の「テロ」もまた、一つの社会の「正義」を体現していたことをこの場面は表わしている。
 また、スピルバーグは、「標的」となったパレスチナ人たちもまた、高潔な人格と魅力を持った一人の人間たちであったことを描いている。その上で「オリンピック村襲撃」の悲惨な現場を何度もフラッシュバックさせ、その悲しみがアヴナーを「国家テロ」に駆り立てたことを描くことで、やはり「正義」は手段のすべてを正当化しえないことを示そうとしている。そして、最後には「ベトナム・シンドローム」の米兵のようにノイローゼに陥るアヴナー。
 この映画は、ともすれば「正義はすべての手段を正当化する」と思いがちな私たち左翼にとっても、重い命題を問いかける。そして、スピルバーグが示せなかった「希望」は、侵略戦争にもテロリズムにも反対する「知性と理性の復権」としての社会運動の勝利を通して、私たちがつくり出していくべきものなのだろう。
 とにかく様々な軋轢や激烈な反応がアメリカ社会やイスラエル、ユダヤ人社会の各所から寄せられることが予想されたであろうこの映画を、スピルバーグはよく撮りきったと思う。七〇年代のイスラエルやヨーロッパの街並みを再現した映像や、往年のスパイ映画を彷彿とさせる刺激的なカットも魅力的で美しい。ぜひ一見をおすすめする。
(ふじいえいご)


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