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茂住衛さん(アフリカ日本協議会)に聞く―バマコのWSFに参加して(上)                             かけはし2006.3.27号

アフリカ開発と新自由主義経済

「バンドン会議から50年」新たなオルタナティブの模索

 今年のWSF(世界社会フォーラム)は、初めての試みとして多中心的開催を行い、西アフリカ・マリ共和国のバマコ、南米ベネズエラのカラカス、パキスタンのカラチの三都市で行われることになった。カラチでの開催はパキスタンを襲った地震のために三月に延期されることになったが、バマコ(1月19日〜23日)、カラカス(1月24日〜29日)のフォーラムは予定通りの日程で成功のうちに開催された。マリ共和国の首都バマコで開催された世界社会フォーラムに参加したアフリカ日本協議会の茂住衛(もずみ まもる)さんに話をうかがった。(本紙編集部)

バマコが開催地
になった背景

――まず最初にバマコで行われたWSFの参加者の構成や、アフリカ諸国の中でなぜマリで開催したのかということから聞きたいのですが。

 組織委員会の中心となったのは現地のマリをはじめとした西アフリカのNGOや社会運動団体の連合体で、そのリストを見るとENDAーTM(環境と開発―第三世界)などの国際的にも有名なNGOも参加しています。開会セレモニーには一万人、それ以外のワークショップなどで合計して一万五千人以上が参加したと言われています。
 バマコ・フォーラムの資金の多くはOXFAMやアクションエイドからの助成でしょう。両者は、アフリカの各地でプロジェクトをやっており、いくつもの国に支部があり、アフリカ人のスタッフも多い。ただいずれもイギリスを本拠とする英語圏のNGOなので、実際のフォーラムの運営面では、西アフリカのNGOと社会運動団体の連合体の役割が大きかったと思います。
 私が最初、WSFをマリで開催すると聞いた時、交通アクセスや旅費の問題を考えると、さほど多くの参加者はいないのではないかと思っていたのですが、よく集まったと思います。バマコは人口百万人ぐらいの都市ですが、そもそも一万人以上の人びとを受け入れるようなインフラが整備されているのかという疑問も抱いていましたが、その点では問題はなかった。二〇〇七年のWSFの開催地であるケニアのナイロビと比べても、バマコは地方都市という雰囲気ですが、いくつかの不手際はあったにしても、よく組織されているという印象を持ちました。さらに、フォーラムの会場では独立メディアの活動も盛んで、ネットからも情報を取れるようになっていました。
 バマコの街中の各所にバマコ・フォーラムポスターが貼ってあり、幹線道路に面した丘の中腹には「もうひとつの世界は可能だ」とフランス語で書かれた巨大な看板が設置されていました。さらに、マリとセネガルで放映されているTVにもWSFのコマーシャルが流れていたり、マリの前文化・観光相だったアミナタ・ドラマネ・トラオネがバマコ・フォーラムのスポークスパーソンとしてメディアに登場していました。メイン会場(全体で11会場)にバマコの中心街にある国際会議場を使用していたことから判断しても、マリ政府が間接的・直接的に支援をしていることは確かでしょう。
 私が見た印象では参加者の半数以上がアフリカから、それもマリとマリの近くのブルキナファソやセネガルなど西アフリカ諸国からの参加者がほとんどのようでした。西アフリカからは、GMO(遺伝子組み換え食品)反対を掲げた農民組合からも多数参加していましたが、一方で東アフリカや南部アフリカからの参加者はさほど多くはいなかったようです。
 AU(アフリカ連合)の今までの議長はナイジェリアのオバサンジョ大統領(1月のAU首脳会議で新議長にコンゴ共和国のサスヌゲン大統領が議長になった)ですが、執行委員会の委員長はマリのコナテ前大統領(2006年2月まで)です。そしてマリは政情が比較的安定していて民主的で、NGOや社会運動団体の活動の余地もある。こうした点から、バマコがWSFの開催地になっのではないでしょうか。

綿花の自由化に
反対した国家マリ


――他のアフリカ諸国によくあるようなエスニック間対立・紛争のようなものがないということですか。

 少なくとも一九九〇年以後は、政府の腐敗やガバナンス能力の不在などということは、他のアフリカ諸国に比べるとあまり指摘されていません。ただし国連などの統計ではマリは世界最貧国の一つに分類されています。北部の沙漠地帯に行けば現金収入の方法がかなりかぎられており、電気や水道もあまり普及していない。
 また、WTO(世界貿易機関)の綿花交渉でマリ、ブルキナファソ、ベナン、チャドの西アフリカ四カ国は綿花の自由化に反対しています。綿花はマリの輸出品のかなりを占めています。こうした点では今の新自由主義路線に対しては、政府もふくめてそんなことをやられたらかなわないという気分が強い。
 アフリカは一九八〇年代の冷戦終結までは西側陣営と東側陣営が引っ張りあう地域になっていました、それ以後はマリもふくめて「アフリカ社会主義」的政策を取っていた国の多くも世界銀行とIMF(国際通貨基金)の構造調整政策を受け入れざるをえなかった。もちろんそれで経済水準が劇的に上がったわけではないし、貧困の解消に向かったとも言えない。ただ統計上では、一九九〇年代後半以後は経済成長率は順調に伸びています。
 こうした状況の中で、政府をふくめて「反グローバリゼーション」的なものを受け入れる基盤はあった。それにマリでは二〇〇二年にサッカーのアフリカンネーションズ・カップが開催されており、サッカーの試合と同様に国際的にお客さんが来るようなイベントをやったという意味もあったのかもしれませんね。

――アフリカ以外からの参加者はやはりヨーロッパ人が多かったのですか。

 圧倒的にフランス人でしょうね。ホテルで一緒になった人たちも、フランスから来て以前のWSFにも参加したと言っていたし、バマコ行きの飛行機で隣の席に座った人もATTACフランスのメンバーだと言っていた。閉会後の記者会見で並んだ四人のうちの一人はジョゼ・ボベでした。英語圏とくにアメリカからの参加者などはかなり少なかったのではないでしょうか。日本からは私以外に行った人もいるかもしれませんが、現地では会いませんでしたね。

民主主義的
議論の保障


――茂住さん自身はどういうワークショップに出ましたか。

 私が参加したのはまず、NEPAD(アフリカ開発のための新パートナーシップ)についてジュビリー・サウスアフリカが主催したワークショップです。このワークショップは、ローザ・ルクセンブルク財団も共催者になっており、会場に入った時にローザの写真が掲げてあったのでびっくりしました(笑)。それとワールド・パプリック・ファイナンスやタックス・ジャスティス・ネットワーク関連のワークショップ、それと、その関連で「WSFの将来〜アフリカに焦点をあてて」と題したワークショップ。あと西サハラ問題と反GMOのワークショップにも参加しました。ワークショップが開催された三日間で合わせて五百くらいは開かれるワークショップのほんの一部しか参加できないので、私自身が関心を引かれたり、ATTACジャパンのメンバーから参加するように依頼されていたワークショップを一日に二つ、三つに限定して参加しました。
 また、WSFの期間中は連日、「TERAVIVA」という新聞(バマコ・フォーラムではタブロイド版8ページ)が発行され、各会場で参加者にも配布されていますが、そこに論争的な課題や不満もきちんと掲載されています。
 例えば、開会日のラリーでは、「フェア・トレード」と書いたプラカードを持ちラクダに乗った参加者がいましたが、翌日の「TERAVIVA」には、このパフォーマンスは「OXFAMがやらせたものではないか」という参加者の批判的なコメント(OXFAM自身は否定)も載っていました。「TERAVIVA」の記事は、GMOや女性の権利といった、あまり対立のない課題では「アフリカはGMOを拒否する」といったストレートな論調になっていますが、前述したNEPADについてのワークショップで主催者が述べた「南アフリカ帝国主義」という規定について、その評価は妥当なのかといった疑問も掲載されている。
 またユースキャンプは、メイン会場から五キロメートルほど離れたところに設置されていましたが、ユースキャンプの参加者の意見として「われわれはメイン会場から追い出されている。締め出しじゃないか」という不満も掲載されている。そうした疑問や反論・不満も載せて、民主的な議論の場を提供していました。
 ワークショップでも皆が「自分にもしゃべらせろ」と言ってしゃべりまくるといった調子で、主張はかなりストレート。そうした雰囲気の中でどんどん論争が行われる。またアフリカの文脈からすると、来年のWSFの開催地がナイロビだということを皆が意識していて、議論することに意味がある、これだけのことをやれた、といことがアフリカの人たちの自信になっているのではないでしょうか。だから成功したという評価ですよね。

NEPADと
「南ア帝国主義」

――「南アフリカ帝国主義」という評価をめぐって論議があったと聞いたのですが、それについて説明してください。

 ジュビリー・サウスアフリカが主催したNEPADについてのワークショップで、主催者側からの最初の提起の中でそのことに言及しています。彼らの主張は明確で、NEPADに反対する理由もスッキリしています。
 NEPADはアフリカの五カ国、エジプト、アルジェリア、ナイジェリア、セネガル、南アフリカの各大統領のトップダウン、またOAU(アフリカ統一機構)からAU(アフリカ連合)に組織替えを行った課程で決められたプロジェクトです。NEPADを推進する側は、NEPADがトップダウンで決めたものであっても、それはIMFや世界銀行ではなくて初めてアフリカ側の主体的なイニシアティブでつくられたものだと主張しています。アフリカにより多くの投資を呼び込むために、民主化やグッド・ガバナンス、汚職追放などを実現しよう、さらにそのために相互監視システムを取って、主権国家だけにまかせるのではなくAUの共同事業として投資環境を備えようということがNEPADの基本になっています。すなわち、アフリカ全域により多くの投資を呼び込んで、さらに開発を進めていかなければならないという考え方ですね。
 ところで、アフリカ全域のガバナンスという点から、AUが今後どのような実効力を持っていくのかという点はまだ未知数です。その点を考える象徴的な事例として、スーダンのダールフール紛争を取り上げてみます。
 この紛争については、まだ国連PKOが派遣されておらず、ナイジェリアや西アフリカ中心のアフリカ派遣軍がPKO的な役割(停戦監視団)を担っています。日本も自衛隊をスーダンPKOに派遣したいと言ってますよね。しかしAUの立場からすると、アフリカ域外からの軍隊の派遣は受け入れたくない。アフリカで起きている問題だからアフリカの中で解決したいのです。バマコ・フォーラムと同じ時期にAUの首脳会議がスーダンのハルツームで開催されていました。この会議で選出されるAUの次期議長は、主催国の大統領か首相が就任することが慣例ですから、本来だったらスーダンのバシールが選出される予定でした。しかし彼に対しては、人権抑圧などの点でAUの次期議長就任に反対する首脳も多い。それで決まらなかったようですね。
 一方でNEPADに対する批判点は、主要に二つあります。一つは、NEPADがNGOや社会運動団体、労働組合などを無視して完全にトップダウンで決定されたものであって、市民社会の声が反映されていないということ。二つ目は、これはアフリカを現在の新自由主義的グローバル経済に組み込んで、ますます周辺化させるものではないか、ということです。さらに、民主化や汚職追放にはもちろん反対しないが、そのことと結びつけて先進国の政府やそのパートナーがアフリカへの政治的支配を強化するのではないかという批判もあります。
 こうしたNEPADへの批判と結びつけて、「南アフリカ帝国主義」という提起がなされています。NEPADの推進によって、欧米などの先進国からの投資だけでなく、南アフリカの多国籍企業が他のアフリカ諸国に手を延ばしているのだという現状分析から「南アフリカ帝国主義」という規定も引き出されているのです。
 南アフリカでは、一九九四年にANC(アフリカ民族会議)が選挙で勝利してアパルトヘイト体制が終わった後も、アパルトヘイト時代に形成されてきた白人の権益や財産は実質上、保障されています。一方で、アパルトヘイト終結から十二年を経ても、貧困の解消や失業問題の解決は進んでおらず、エイズという深刻な社会危機が起きても、政府はなんの有効な対策も取らない。ANCの旧幹部もブラック・ブルジョアジーになって、アフリカ全域に進出していく金融資本や多国籍企業をサポートしている。また経済力という点では、サハラ以南アフリカ全体のGNPの4割を南アフリカ一国で占めていて、ほかに対抗できる国はない。だから、「南アフリカ帝国主義」という規定からは、南アフリカの多国籍企業の投資環境を整備するためにNEPADが推進されているのではないか、と捉えることもできます。
 ただし現状では、「南アフリカ帝国主義」という規定が、アフリカ全域のNGOや社会運動団体の中で広範に共有されているとは考えにくい。NEPADについてのワークショップの中でも、NEPADへの反対論や「南アフリカ帝国主義」という規定に対する疑問や反対の意見も出されていました。「NEPADに問題があるにしても、これはアフリカのイニシアティブではないか。開発しなければアフリカ全体はどうにもならないだろう。市民社会組織は、NEPADをよりよくするための交渉者になるべきだ」という声が「TERAVIVA」でも紹介されていました。
 さらに、南アフリカのANC政権に対しても、「偉大な反アパルトヘイト闘争を遂行してきた勢力ではないか」として、今でも「アフリカの希望の星」と捉える見方は、アフリカ全域の中ではまだ根強く残っています。ANCの権威は、南アフリカの社会運動団体の中ではかなり失墜していても、ほかのアフリカの地域ではまだ健在だと言えます。たとえば西アフリカのNGOや社会運動団体の中で「南アフリカ帝国主義」という規定に賛同する団体は非常に少ないと思いますね。     (つづく)


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