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                           かけはし2006.2.20号

社会変革のための民主的、複数主義的、人間的な枠組と戦略にむけて(2)

ピエール・ルッセ

第2章 橋渡し―再評価の過程

 いくつかの政治組織が生き残り、ただ生き残るだけでなく依然として「生きている」、つまり現在のラディカル化の過程の中で依然として積極的な役割を果たすことができる理由を説明するのは簡単ではない。それぞれの組織について、それらの組織の綱領やイデオロギー的な考え方、政治的・組織的伝統、社会的基盤の何がそのことに寄与したのかを研究することができる。しかし、全体的には、どのイデオロギー的傾向も、実践において他の傾向に対する優位を証明してはいない。これは特に国際的視点から見たときに明らかである。
 フランスでは、一九七〇年代のラディカル左翼(当時親ソ派だった共産党よりも左に位置している党派)で残っているわずか三つの有力組織は、実際にはそれぞれ大きな差異があるが、いずれもトロツキストと呼ばれている。インドでは共産党マルクス主義派よりも左に位置している主要な組織は、同様に大きな差異があるが、すべてML派(すなわちマオイスト)の伝統に由来している。
 一九六〇―七〇年代の経験から形成された諸組織は、政治的・イデオロギー的起源に関わりなく、今日も存続しているためには、全面的な再評価の過程を経なければならなかった。私は、これはいかなる運動にとっても、長期的に存続するための主要な必要条件の一つ(それだけで十分ではないとしても)であると思う。
 この点について説明するために、私はフランスの私が属している運動の進化について述べる。これは私が最も良く知っている運動だからである。われわれは他の多くの潮流と比べて、一九九〇年代の新しい世界の現実に対して最もよく準備されていた。なぜなら、われわれのマルクス主義は反スターリン主義(ソ連邦の理想化と無縁だった!)・反官僚であり、相対的に複数主義的であり、社会運動自身の民主的なあり方を尊重していたからである。それにも関わらず、われわれは、理論的に最も得意とする分野についてすら、全面的な再評価の過程を経験しなければならなかった。
 こうした進化と再評価はしばしば経験的に行われるか、ほとんど取り上げられず、(従来の)「正統派理論」の名の下で拒絶されることすらあった。組織というものはしばしば、現実を見ないという特別の能力を発揮する。一九八〇年代に、われわれの多くのメンバーは、アムステルダムに設立された国際的な活動家の学習・研究センターを中心に発展した集団的な作業を通じて、これらの問題について再考し、それに意識的かつ明示的な形を与えた。私はこの再評価の範囲について、非常に包括的な方法で説明する。
 私が属しているイデオロギー的潮流の活動家の世代の「原罪」は、「綱領主義」と急進的「行動主義」の組み合わせだった。われわれの「綱領主義」は、前の二つの世代からの遺産だった。われわれは少数派で、社会的基盤も小さかったが、世界革命のための全面的な綱領を継承していた。それは第三インターナショナルの初期の経験と、後の左翼反対派とトロツキーの経験によって形成されたものだった。言わば、理論は優れているが、それを実践するための基盤が弱かった。そのためにわれわれの政治的立場はバランスを欠いたものになりがちだった。
 われわれが同時に、当時の時代と環境が生み出した典型的な世代であり、ラディカル化した学生の急進的行動主義を濃厚に表現していたことも事情を一層複雑にしている。基盤が弱いまま走り出したわれわれの運動を、われわれの壮大な理論で厳密に拘束することは不可能だった。何年かにわたって、われわれの「綱領主義」と「急進的行動主義」の間にダイナミックな緊張関係が存在した。

1.教訓は大事だが、当てはめられるモデルは存在しない

 再評価はしばしば、使い古された理論的公式と具体的な政治的・歴史的分析の間のギャップが無視できなくなったときに行われる。そのような状況が、われわれの革命のパターンの「モデル」についても起こった。
 一九一七年のロシア革命はわれわれに、帝国主義国における革命の明確なパターンを提供していると思われていた。問題は、この「モデル」は実際には存在しなかったということである。ロシアにおける社会構造と社会力学は西欧諸国におけるそれと全く異なっていた。革命の過程は都市から農村へ広がるのではなく、女性、労働者、農民を結び付け、そして都市と農村、そして全国的な蜂起を結合した。兵士たちも蜂起し、武器を持ったまま大挙して自分たちの村や地方へ帰った。最も複雑な戦略上の問題(人民をいかに武装させるか)には、非常に特殊な解答があった。ロシア革命は第一次世界大戦と、巨大な常備軍の解体という背景の中で起こったからである。ロシア革命から多くの価値のある教訓が導かれる。しかし、この革命のパターンが世界大戦という枠組によって深く規定されているとすれば、そこから革命のモデルについて語ることはできない。
 マオイスト潮流が中国革命をモデル化したやり方についても同様の問題を指摘できる。マオイストが第三次中国革命(大長征から一九四九年の勝利までをこう呼んでおこう)について言及する傾向があるのに対して、トロツキストは多くの場合、主に第二次中国革命(1925―27年)について学習してきた。
 実際には、中国革命の具体的なパターンを理解するための主要なカギの一つは、この二つの時期の間のつながりである。紅軍は大規模な大衆の蜂起と軍隊内の広範な反乱から生まれたのであり、小さな武装宣伝隊が徐々にゲリラ軍へと成長したのではない。それは形成されたときにすでに三十万人の強大な軍だったのである! そして大長征は一九二七―三〇年の壊滅的な敗北の後、その最大限の兵力を残しておくための行動だった。中国革命からも多くの教訓が導かれる。しかし、このような特殊な経験からモデルを組み立てることはできない。
 私たちはもちろん、種々の革命のパターンを検討するために理論的「モデル」を構築することはできる。そうすることが有益であるかもしれない(私はそれについてはあまり確信をもっていないが)。しかし、そのようなモデルは抽象化されたものであり、直接に当てはめることはできないということを明確に理解している必要がある。これは再評価の二つ目の領域、つまり戦略の問題につながる。

2.戦略の具体的な性格

 「革命のモデル」というコインの裏側は戦略の問題である。
 ロシア・モデルは評議会(労働者、農民、兵士)の形成とそれを通じたソヴィエト型の権力システム(ロシア革命の1つの現実)として定義される。非常にもっともな理由で、それが主要な目標であり、社会主義的民主主義に生命を与える方法であると考えられた。 そのため、われわれは戦略を決定する上で、「綱領的決定論」とでも呼ぶべき方法をあてはめた。
 戦略はわれわれの綱領的目標である社会主義的民主主義を実現するための「ロシア・モデル」(残念ながら、そのようなものは存在しなかったのだが)に合わせなければならないと考えられた。たしかに戦略の選択は綱領によって影響される。しかし、それは他の多くの要因にも影響される(過去の時期における闘争の結果は、それらの中の最も重要な要因の1つである)。
 マオイストの組織は、「社会学的決定論」とでも呼ぶべき方法を発展させた。第三世界の国は、当然にも「半封建・半植民地」であり、持久的人民戦争が必然的に選択される戦略であるという考え方である。
 そのような一般化された抽象的なモデルを構築するために、彼らは中国革命からその豊かな経験の多くを洗い流さなければならなかった。教訓を学ぶ方法としてはあまりにもひどい。
 われわれが抽象的な戦略の定義から本当に決別するまでに、かなりの時間がかかった。一つの国について、一九三〇年代から一九七五年までに、いくつかの異なる戦略が次々と採用されるべきだったことは、最初から明らかだったにも関わらずである。この問題について、ベトナムの経験が特に教訓的だと思う。なぜなら、ベトナムでは長期にわたって(1920年代末から1975年まで)闘争が継続したからである。
 われわれは常に、戦術を定義するためには具体的な情勢についての具体的な分析が必要であることを理解していた。われわれはそのことが戦略についても言えることを最終的に理解した。具体的な戦略は一般的に、さまざまな戦略「モデル」の要素を組み合わせ、力関係の変化に対応して進化するものである。こうしたわれわれは「具体的かつ複合的で進化する戦略」という概念に到達した。   (つづく)


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