もどる

行政の対応は矛盾を拡大するだけ             かけはし2006.1.23号

野宿者の排除に抗して反失業闘争の社会的拡大をめざそう

05〜06山谷越年越冬闘争報告

「地域生活移行支援事業」はテントの破壊をもたらした

 十二月二十八日の昼から年明けの一月四日の早朝まで、財団法人労働福祉センター前の路上を占拠して山谷越年越冬闘争が闘いぬかれた。
 昨年は隅田川を中心に行政による排除が進行し、それに対する闘いも特に夏以降前進した年だった。仲間たちは「センター前、隅田川を貫いて闘おう」を合い言葉に八日間の越年闘争を闘いぬいた。

二〇〇五年の攻
防をふりかえる

 昨年一年間は越年期に少年たちによる隅田川のテントに対する襲撃が相次ぎ、パトロールや地域へのビラ入れ、教育委員会への申し入れなどの活動を集中して取り組む中から始まった。
 春からは東京都の地域生活移行支援事業が前年の新宿に続き隅田川でも開始され、それにともなう排除との闘いが激しさを増した。
 地域生活支援事業は新宿中央公園、戸山公園、隅田川両岸、代々木公園、上野公園の五つの地区に住むテントの仲間を東京都が借り上げたアパートに入れ、二年間三千円の家賃で貸す、最初の半年は都が仕事も紹介するというもので、期間中の二年間で「自立」させるという。
 五つの地区のテントに住むものに限られるということ(隅田川に至ってはテントの集中している地域の約半分にあたる吾妻橋から桜橋の間に限定されている)からも「野宿者の自立」はあくまで建前に過ぎず、人目につきやすい場所からの「テントの排除」こそが狙いであることが分かる。
 指定された地区以外でテント生活をしている人や、テントを持たずに駅や公園のベンチ、商店街のアーケードの下などで夜を明かしている仲間は対象外である。
 また、半年間は仕事を出す(月に6・5日)と言うが、生活保護の水準から見ても低すぎる。
 二年間で自立を目指すと言うが、ホームレス自立支援法に基づいて作られた自立支援センター(二カ月間の入所期間中は住所を置け、ハローワークに通って仕事を探す)が機能し得ないからこそ今回の地域生活支援事業が出て来たのではないのか。何か自立支援センターとは違う就労対策があるのか。
 山谷争議団・反失実、山谷労働者会館活動委員会では多くの批判的な意見を保持しつつ、事業を利用する仲間も、残ってテント生活を維持する仲間も支援していくことを決め、アパート訪問や、アパートに入った仲間の寄り合いなど、事業を利用した仲間と結びついていく活動を開始し、残った仲間に対する排除に対してもともに闘う動きを強めていった。

「支援事業」の実
態はどんなものか

 隅田川の両岸では約二百人がこの事業を利用したが、ほとんどの仲間が訴えたのが半年間の臨時就労についてだった。東京都の約束した月六・五日は真っ赤なウソでほとんどが二日、三日しか出ていない。秋からは上野公園でもこの事業が始まったが(利用予定者約三百五十人)十二月は一日しか仕事が出なかった。
 これでどうやって「自立」しろというのか。アパートに入った仲間たちは(東京都に払う)家賃は滞納しても、水道光熱費だけはなんとか金を工面して納めたり、住基ネットの身分証明カードを区役所で取って携帯電話を購入し就職活動をしたりと、なんとかアパート生活を維持しようと努力しているが、すでにアパートを維持できなくなり、路上に戻らざるをえなくなった仲間も多いのが実情である。
 アパート寄り合いに参加した人で生活困窮に陥っている仲間については、本人とともに居住区の福祉事務所に赴き生活保護の申請を行っている。これまでのところ申請した全員が生活保護を勝ち取って入るが、各福祉事務所ともすんなりと生保を出す訳ではない。
 申請に行っても「申請書」を簡単には渡してくれない、ロビーに置いてあるわけではないのだ。まず、「相談」をしなければならないが、ここで家族構成から何から根掘り葉掘り聞かれ、プライバシーを丸裸にされる。この段階で、多くの仲間が「もういいよ」と席を蹴ってしまう、実はそれが狙いなのだ。「生活保護を申請したけどダメだった」とほとんどの人が思ってしまうが実はそうではない、「申請書」を提出しなければ、申請したことにはならないからだ。
 基本的には「相談」の後で福祉事務所からもらった申請書に記入して提出するのだが、法的には必要事項さえキチンと記入されていれば自分で申請書を作っても問題はない。
 悪質な場合にはこちらで作った申請書に記入してもらい、福祉事務所に叩き付けてくるのだが、申請されれば福祉事務所は二週間以内に審査しなければならない。
 今回の地域生活移行支援事業は「テント生活者は生活費は稼いでいるが、住居費までは稼げていない。だからアパートを提供すれば自立できる」という東京都の認識で行われている。つまり事業の利用者は「働いているのに生活保護の水準以下の収入しか得られていない人びと」であると東京都が認めているのであり、審査すれば却下することは出来ないはずなのだ。
 しかし、生活保護を勝ち取ったからといってそれで安心という訳ではない。就労指導がこの間強化されており、中には何カ月で就職し、何カ月でいくらの貯金をし、何カ月で自立する、という「計画書」なるものを書かせるケースワーカーもいるという。もちろん計画しても就職が思うようにいかなければ意味はないし、保護を打ち切る法的な根拠にもならないのだが、本人にとっては大きなプレッシャーとなる。
 そして指導の中身もほとんどが常雇いでの「就職」を前提としており、現実的とは言いがたい。高齢で資格等も取っていない場合は、ガードマンか清掃の仕事ぐらいしか求人はなく、しかもパートタイマーなど収入が不安定なものが多い。しかし、「ハローワークに通ってちゃんと就職しろ」というのが福祉事務所の指導である。
 パートなどで稼ぎつつ足りない分は生保で、というのではお役人の「実績」にはならないのだろう。三カ月間就労活動をしなければ保護打ち切りと言われるが、むしろ「本人失踪による保護打ち切り」という方向に追い込んで行こうという意図が強いように感じられる。


激化する隅田川
での野宿者排除

 路上に戻った仲間がもう一度テントを張ろうとしても以前居た場所へは戻れない。「新規流入防止」を掲げ、隅田川の両岸のみならず、墨田区、台東区内の公園ではテントを張ることはおろかベンチで寝ているだけでも昼も夜もガードマンが回って来て叩き起こすと言う事態が続いた。
 とりわけ墨田区では土木課のO主査を先頭に激しい排除の嵐が吹き荒れた。
 地域生活移行支援事業の開始前には事業とは全く関係のないセクションの人間であるにもかかわらず、隅田公園で「説明会」を勝手に行ったり、「事業を利用したいやつはこっち」「事業を利用しないやつはあっち」などと勝手にテントを移動させたり、と好き勝手なことをやっていた。事業が開始されてからは対象地域となった隅田川沿いの吾妻橋から桜橋まで(テント集住地域の浅草よりの半分近くにあたる)。
 そんな中で、七月十三日錦糸町駅近くの墨田区大横川親水公園で野宿していた香取正光さん(享年64歳)が二人の少年たちによって襲撃され、殺害されると言う事件が起こった。
 大横川親水公園も以前は多くのテントが建てられ、仲間と支え合いながら暮らしていたが墨田区土木課による追い出しでテントが建てられなくなり、一人残った香取さんは橋の下の通路に寝ていたところを襲われたのだ。

墨田区役所を追い
つめた闘いの発展

 墨田区教委、都教委、区内の各学校へ申入書を送ると同時に仲間たちは墨田区役所前で抗議のビラまきを行った。
 そして、桜橋の墨田区側の高速道路下デッキで集団野営を開始した。ここはかつて高速道路の下で雨がしのげるということもあり、多くの仲間が夜間体を横にしていた場所であり、段ボール小屋もあったのだが、〇四年春の撤去以降全く野宿することが出来なくなっていた。
 数人の仲間で始められたこの取り組みも秋口には四十人から五十人の仲間が寝るようになり、当初はガードマンにより行われた排除も全く寄せ付けないようになり、さらに寒くなって段ボールで風よけをしなければならなくなった頃からは、段ボールや毛布などを畳んで昼間置いておくことも出来るようになった。
 これも最初は墨田区土木課の職員によって荷物を勝手に捨てられたり、段ボールを水浸しにされたりといった嫌がらせに対して仲間たちが毅然と抗議したり、協力してくれる弁護士に人権侵害に対する警告書を書いてもらったりといった闘いによって勝ち取られたものだが、悪質な排除が行われれば行われるほど、多くの仲間が闘いに結集するという中で墨田区土木課は追いつめられていった。
 朝起きると段ボールなどを畳み、周辺をほうきで掃いて掃除する。この掃除はかなり徹底的にやられており、今では早朝、ジョギングや犬の散歩をする人たちが「おはよう」「ご苦労様」と声をかけるまでになっている。
 もう一つ象徴的なことはO主査が前面に登場できなくなったことである。十月、高速道路下でテント生活を送っていたKさんが日よけに使っていた木の板をO主査が持ち去ろうとした、テントの中に居たKさんが気づき板の引っ張り合いになった、すると、突然O主査は携帯で警察を呼び暴行を理由に逮捕させたのだ。
 Kさんは警察の「謝れ」というどう喝にも屈することなくがんばり続け、不起訴で釈放を勝ち取った。これ以降O主査は排除の前面に立つことが出来なくなった。墨田区の野宿者から「赤鬼」と呼ばれて、蛇蝎のように嫌われ、恐れられていたO主査、自ら「俺が誰だか知っているか、俺が赤鬼だ」とすごんでいたO主査、彼を恐れるものは誰もいなくなった。

新しい排除の動
きがはじまった

 十一月に入って新たな排除の動きが始まった。隅田川の両岸のテラス(遊歩道)は墨田区側は東京都第五建設事務所、台東区側は東京都第六建設事務所の管轄である。ここも地域生活移行支援事業の対象となった吾妻橋から桜橋までの間はテントが激減し、新規流入防止によって新たなテントは建てられなくなった。
 この両岸で工事を理由にした排除攻撃が始まった。墨田区側は言問橋下のテラスの接岸工事、台東区側はフラワーポットの設置が共に名目だが、桜橋よりも上流へ移動しろ、と言っていることからも、浅草寄りの地区からのテント一掃に向けて五建、六建が共謀していることは明らかだ。現場での闘いや、六建事務所への抗議行動には桜橋の仲間も駆けつけ、今までのところ仲間のテントには一切指も触れさせていない。
 台東区側テラスではテントのない場所へのフラワーポットの設置が始まったが、テラスへの階段の降り口にご丁寧にも二列にしかも交互に置くなど全く不自然な置き方で、ほとんどバリケード。これはあるキリスト教団体の炊き出しがこのテラスで行われているので、それを邪魔するためである。
 また、両国でも船着き場の改修工事を名目にした五建による排除の動きがあったが、これも仲間の闘いで排除を許していない。
 野宿者問題を「テント問題」に切り縮め、テントをなくしさえすれば良いという行政の姿勢はむしろ矛盾を拡大するだけである。失業によって新たに野宿に追い込まれた仲間、中途半端な施策によってテントを奪われ再度路上に放り出された仲間は新たにテントを建てることもままならない最悪の状態に置かれている。
 野宿の問題は失業の問題に他ならないし、そのような観点を持つことぬきに根本的な解決の方向を探ることは不可能である。

八日間の越年越冬
闘争をやりぬく

 十二月二十八日、山谷労働者福祉会館に集まった仲間たちは昼過ぎから城北労働福祉会館前の路上に資材を運び入れ、設営と夕食の準備に入った。桜橋の仲間も炊き出しの燃料となるパレットをトラックで取りに行きセンター前に運び込む。その他布団なども運び込まれ、年明け四日までの越年闘争が始まった。
 毎週の炊き出しの米を提供してもらっている長野や、山梨の農家の野菜、毎年肉のカンパをしてくれる横浜、芝浦の各屠場労組からの肉、三里塚からのカンパの野菜も届く。
 夜は上野での炊き出しや隅田川での闘いを記録したビデオの上映、映画「山谷 やられたら やりかえせ」の上映、そして大晦日の日の路上芝居さすらい姉妹「望郷」。毎年来てくれるさすらい姉妹はセンター前を皮切りに、寿、上野公園、新宿、渋谷と各越冬の現場を回って上演された。
 年越そばは今年はセンター前だけではなく、初めて桜橋でも行われた。料理人としての経験のある仲間がつゆを作り、かつて桜橋で野宿していたことがあると言う仲間から差し入れられた桜えびなどを使ってかき揚げを作った。川の側は風が吹き抜けて死ぬほど寒かったが、ブルーシートで囲いを作ってしのいだ。越年期間中にも桜橋では寝る場所がないと言う仲間数人を受け入れ、仲間が仲間のために段ボールや毛布を調達し、命をつなぐ場所としての桜橋集団野営の闘いをやりぬいた。
 三十一日には隅田川で、一日にはセンター前と東京都による越年期の山谷対策であるなぎさ寮で、二日は上野でそれぞれ餅つきが行われた。
 また、十二月二十九日には反WTO反対闘争での弾圧に対する中国大使館への抗議行動が取り組まれ、山谷・センター前からも多くの仲間が合流した。WTO反対香港現地闘争で韓国の仲間とともに不当に逮捕・起訴され、香港に留まることを余儀なくされていたN君は大阪で野宿者運動を闘う仲間である。
 炊き出しの食数は最大で三百数十人と一時期よりは大幅に減った。これは地域生活移行支援事業などでテントの仲間が減ったのと、スリーエスなどの施設(野宿者を集めて生活保護を申請し、食費、宿泊費などを取る施設。数年前まで飯場だったなどというところも多い)などが増えて来たことや都内での排除の進行などが原因と考えられるが、こんなことが根本的な解決ではないことは言うまでもない。これら潜在的な野宿者とも結びついて行けるような闘い、活動のあり方を模索して行くことが必要だろう。
 年明け早々に大阪で数カ所の公園でテントを張る仲間に対して強制代執行がかけられたという情報が入った。反排除、反失業の最先頭で闘う山谷そして各地の日雇い、野宿の仲間の闘いに注目と支援を。 (板橋道雄)


もどる

Back