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ブラジル 2006年大統領選挙――深い政治的亀裂(上)  かけはし2006.12.4号

労働者は分断され、左翼は分裂

ジョアオ・マチャド/ジョゼ・コレア・レイテ


第一回投票と分極化

 十月一日に行われたブラジル大統領選挙の第一回投票において、幻滅した選挙民は、ブラジルの二大政治ブロック――一つはPT(労働者党)を中心にしたブロック、もう一つはPSDB(ブラジル社会民主党)とPFL(自由戦線党)との連合に基づくブロック――との間での分極化という状況の下での選択を強制された。最終週にはルラとヘラルド・アルキミンとの大統領選での競い合いをめぐって、この分極化は最も鋭いものとなった。
 第一回投票で、ルラは四千六百六十六万票、有効投票(白票、無効票を除く)の四八・六一%を獲得した。アルキミンは三千九百九十七万票、四一・六四%を獲得した。第三位につけたのはPSOL(社会主義と自由党)と左翼戦線の候補エロイザ・エレナで六百五十七万五千票、有効投票の六・八五%を獲得した。PDT(民主労働党、通常は左翼ポビュリスト党と見なされている)の上院議員クリストバン・ブアルケは二百五十四万票で二・六四%だった。他の候補の得票はきわめて少なかった。

 以前の選挙とは異なり、今回の選挙戦は無関心の広がりを特徴としている。その理由の皮相的な説明によれば、新たな選挙規則のために、以前は数カ月にわたって選挙民の間に広く溢れ返っていた宣伝の多くが禁止されたためだということになる。
 しかしもっと説得力のある説明では、無関心の原因は、ルラ政権の四年間で、住民の最も政治化した部分の希望が失望に代わったことに見いだされる。その失望は、かつてPTを特徴づけていた活気あふれる街頭活動がほぼ完全に失われたこと(活動家が今や職業的政治家に置き換えられた)や、PTへのあらゆる「確信的支持票」が失われたことにあからさまに示されている。
 ルラ・グループが新自由主義(あるいは社会自由主義)への明白な転換を行い、PT内部の深刻な腐敗が暴露された後の初めての大きな選挙戦で、こうしたことが起こるのは予測されたことだった。

政治サイクルの終わり

 しかし政治への幻滅、そしてとりわけ政治権力は社会的変革と解放への手段となりうるという考え方への広範な幻滅は、深い根拠を持っている。
 一九八〇年代の民主主義への復帰以来、多くの希望が失望に転化した。軍事独裁に対する主要野党(PMDB、ブラジル民主運動党。同党は「民主主義戦線」と見なされた)に注がれた希望があり、独裁後の初の大統領選挙(一九八九年)が生み出した希望があり、初期のフェルディナンド・エンリケ・カルドゾ(FHC)政権への楽観主義すら存在していた。ルラへの不満、とりわけPTへの不満は、したがって失望の長い連鎖の最後のものであり、最も重大なものである。
 またわれわれは、一九九〇年以降のブラジル社会の変化を計算に入れなければならない。ブラジルの世界市場への従属的編入の拡大、生産能力の新自由主義的再形成、経済的停滞、古い階級関係とアイデンティティーの破壊、個人主義と消費者主義の発展、イデオロギー的後退、そして市民の政治活動全般の衰退という点で、ルラ政権の四年間はFHC政権の八年間(一九九五年〜二〇〇二年)、コロル―イタマル政権の五年間(一九九〇年〜九四年)を踏襲するものである。
 労働者階級に根ざし、独立的に組織化され、PTとCUT(統一労働者センター、最大の労組ナショナルセンター)を建設した社会主義左翼の多くの部分は、いまや存在しなくなっている。自立的な階級組織は弱体化し、労働者は社会的に分断され、残った社会主義左翼は分裂し、防衛的になり、展望の危機に陥っている。一九八〇年代と九〇年代においてブラジル左翼を他のラテンアメリカ諸国から区別していた一つのもの、すなわち大衆的で、社会主義的で、政治的に行動し、組織されたプロレタリアートに根ざし、資本家階級から自立的であるという特質は、もはや存在しない。
 同様のことが社会運動についても起こった。一九八〇年代が大動員の十年間であったとすれば、九〇年代には下降を経験した。一九九〇年代全体を通じてMST(土地なき労働者の運動)が大規模な動員能力を持った唯一の社会運動だった(ルラ政権のはじまりからMSTは袋小路に直面した)。
 労働組合は、長い間、どのような政治的影響も与えていない。この状況の中で新しい世代は、大きな社会的動員の経験がない。ブラジルで確立された左翼の政治的アイデンティティーを解体するという仕事は、その大部分がすでになしとげられてしまった。一九八〇年代の政治サイクルは終わりを告げた。
 この選挙で登場したものはネオ・ポピュリストのPTだった。それはルラ自身のカリスマ的指導性と公共資金の支配に基づいた選挙機構である。その機構は、支配階級の安定にコミットしているが、無神経なエリートたちに反対して貧しい人びとを擁護する者として自らを押し出している。それにより、ビジネスが通常のように運営されることを保障しているのである。
 にもかかわらず全国的危機は解決されない。選挙ブロックのどちらの側が権力を取っても、将来の進歩を確保できない。ブラジルは急速な成長を経験している世界経済の中で停滞を続けている。地域的統合はマヒしている。社会的危機は先鋭であり、住民全体に提示するような質的により良い未来への希望はない。
 多様な組織形態が、より野心的な行動となんらつながろうとしないまま――それはまさに政党の役割であるべきなのだが――生じている。ブラジルは世界で最も対立の深い社会の一つであり、この対立がラテンアメリカの中心で沸騰しようとしており、よりラディカルなオルタナティブが地盤を獲得している。左翼にとって新たなスペースが確実に開かれようとしている!

エロイザのキャンペーン

 こうした後退状況の中で、左翼戦線のエロイザ・エレナの立候補は左翼の歪曲に対する抵抗の表現であり、今回の選挙における新しい要素だった。それが、ブラジルの進歩的政治の危機に終止符を打つには不十分であったとしてもである。
 現在までのところ左翼戦線の中で最も重要な政党はPSOLである。PSOLの政党登録が認められたのはちょうど一年前(二〇〇五年九月)だった。他の二つの政党、PSTU(統一労働者社会主義党、ナフエル・モレノの伝統に導かれた党。モレノはアルゼンチンの著名なトロツキストで一九七九年に第四インターナショナル統一書記局から分裂)とPCB(ブラジル共産党)は、政治的比重(とりわけ選挙での)ははるかに小さい。
 PSOLは、数千人の活動家を擁して今回の選挙戦に突入した。党活動家の多くは労働組合員であり、若者の間に重要な影響力を持ち、何人かの議員を擁していた。上院議員が一人、連邦(下院)議員が七人、州議会議員が四人、そして数十人の地方議員がいる。いずれにせよPSOLは少数政治勢力であり、PT左派のごく一部と他の政党(主にPSTU)の少数派活動家を結集した党であった。
 実際上、PSOLはその脆弱な組織と少数の社会基盤が示す以上に、エロイザ・エレナ上院議員の人気とカリスマ性のおかげで今回の選挙で大きな役割を果たした。今年の初め、選挙キャンペーンが始まる前の段階では、世論調査で彼女は四〜六%の支持を集め、大統領選挙で三位につけた。
 七月からメディアは選挙(とりわけ大統領選)により多くのスペースを割きはじめた。大統領候補たちはTVネットワーク(とりわけ全国最大のネットワークであるレデ・グロボ)に一日数分の時間が与えられるようになった。メディアへの登場のアンバランスはなくなった。それはエロイザ・エレナの選挙にはずみをつけ、八月中旬までには世論調査での支持は一二%に達した(それは、「わからない」や「投票を棄権する」という人びとを除けば、有効投票の一四〜一五%に相当する)。
 それはメディアへの露出の機会が増したことに加え、幾つかの要因によって説明できる。ルラ政権に対して勇気をもって対決してきた、だれもが闘士として認める女性というアピールで彼女の人気は最高になり、数週間の間、声をそろえた非難はほとんど受けなくなった。そして野党PSDB(ブラジル社会民主党)でさえ(報道機関の一部も)、エロイザの人気上昇を第二回投票に持ち込む上で有利と見なした。この時点で、エロイザのアルキミンとの差は縮まり、選挙がルラとアルキミンに二極化することが避けられるようにさえ思えた。
 しかしTVでの公式の選挙宣伝が始まり(八月十五日)、巨大選挙マシーンが動きだして以来、この比較的有利な状況はなくなってしまった。
 二つの選挙ブロック――ルラとPSDB・PFL――の背後に集まった、不釣り合いなまでに巨大な物質的・組織的手段の不均衡が、決定的な重みをもって現れた。左翼戦線は競い合うことができなかった。この不均衡は、法律によって割り当てられたラジオとテレビの政党用放送時間のために増幅された(各政党に割り当てられた放送時間は、二〇〇二年選挙の結果に従ったものであり、その時PSOLは存在していなかった)。
 他方、PSOLと左翼戦線の組織的弱さのために、接近してきた人びとや支援しようとした人びとを運動に引き入れることはできなかった。エロイザを支持する選挙民の一部は、彼女への支持はオルタナティブを提示するには弱すぎることを理解した。戦術的投票(訳注:アルキミンを落とすためにルラに投票を集中すべきという)を行うことへの圧力が増大した。とりわけルラとアルキミンの支持率の差が縮まり、第二回投票に持ち込まれることもありうると見られるようになった選挙前の最後の週には、そうした圧力が高まったのである。

左翼戦線の限界と可能性

 左翼戦線の運動にとってのもう一つの困難は、その組織的弱さであるとともに政治的弱さでもあった。多くの州では、運動の統一した政治指導部を作りだせないことが明らかになった。この弱さのおそらく最も深刻な結果は、左翼戦線の政府綱領の作成が完成しなかったこと(マニフェストのみが配付された)である。それはPSOL内部、ならびにPSOLと左翼戦線の他の政党との間の内部的な意見の相違によるものだった。
 これは、エロイザ・エレナとPSOLならびに左翼戦線の他の候補者が、わが国のための綱領的オルタナティブを提起しなかったということを意味しない。
 しかし、公式に確認された綱領的文書がなかったという事実は、こうしたオルタナティブの提示が持っていた影響力を限定的なものにし、左翼戦線の候補者に対する敵対者や報道に批判の余地を与えたのである。
 エロイザの選挙運動のもう一つの政治的限界は、彼女が政治的プロジェクトを代表するものとして、あるいは社会的闘争の過程を代表するものとして語るよりも、一人称で語ることが多かったからである。それはある程度まで不可避だった。それは、政治的構想がいまだ初歩的なものであったこととともに、いまだ集団的指導体制に発展できておらず、大衆的動員がほとんどない時期における全国的影響力を持った候補であったことによるものだった。さらに大統領の座をめぐる争いの論理が、まさしくそうした状況をもたらしたのである。彼女は党や戦線の候補者ではなかったのである。
 にもかかわらず、それがこの運動の重大な政治的弱点であったことは疑いない。
 おそらく選挙結果に与えた影響は大きくはなかったとはいえ、運動にとって否定的影響を与えたもう一つの問題は、妊娠中絶の解禁という課題であった。PSOLと左翼戦線の圧倒的多数の立場は中絶の解禁を支持していたが、エロイザ・エレナは良心の問題としてそれに反対した(訳注:彼女はカソリック教徒であり、一部のメディアでは「カソリック・トロツキスト」と呼ばれていたそうである)。メディアはこの食い違いにスポットをあて、中絶に関する彼女の立場について執拗に質問した(他の候補者はだれもそうした質問を受けなかったのであるが)。
 いずれにせよ今日のブラジル(そして世界)の歴史的状況の中で、六百五十万票以上、有効投票の六・八五%を獲得したことは、つねに自らを「ラディカル」派であると主張し、彼女の運動の最後(大統領候補者間の最後のテレビ討論)を、自分が立候補したのはPTが放棄した社会主義への責任をあらためて訴える必要があったからだ、という言葉でしめくくった候補者として、きわめてすばらしい結果だった。
 エロイザが獲得した票――六百五十七万五千三百九十三票、そのうちサンパウロで百五十六万、リオデジャネイロで百四十二万、ミナスジェライスで五十七万九千、リオグランデドスルで四十四万(以上はブラジルで最も工業化された四つの州)――は、おもに倫理的で、新自由主義反対の票であった。それはブラジル左翼の困難な状況の中では勝利と言えるものであり、キリスト教会や、公務員、労働組合活動家との真の関係、そしてリベラル派の中流階級と大学との真の関係を指し示すものである。
 この選挙結果の重要性は、彼女がリオデジャネイロ州――通常わが国で最も政治化した州と見られている――で一七%以上、彼女の出身地であるメセイオ市(アラゴアス州の州都。北東部にあるこの州は、ルラ政権の地方支援政策によって最も利益を受け、ルラの得票率が最高だった)で二五%を獲得したことを思い起こせば、さらに鮮明になる。
 今回の大統領選挙投票で、新自由主義モデルの二つのバージョンに反対し、ブラジル世論の重要な部分を占める広義の左翼有権者は、PTと決裂したさまざまな部分をふくめて約一〇%に達し、エロイザかクリストバン・ブアルケ(民主労働党)に投票した。
       (つづく)


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