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今こそ歴史の経験を学ぶとき                かけはし2006.1.16号

東アジア民衆の連帯で「歴史の逆流」を押しもどそう

映画と証言の集会

南京虐殺の目撃者と韓国人被爆者が語る

 【大阪】平坂春雄さん(日中労働者交流協会)、林同春さん(神戸中華総商会)、李清一さん(在日韓国基督教会館)の呼びかけによる実行委員会主催で映画上映と証言集会が、十二月三日エルおおさかで開かれた。
 午前中は、戦時中日本軍が捨てた毒ガスの問題をあつかった映画「にがい涙の大地から」が上映された。午後は、中国と韓国から二人の証言、「このごろ考えること」と題した小田実さんの特別講演、いかに「憲法・教育・歴史」の逆流を止めるかと題したパネルディスカッションが行われた。
 林同春さんは、満州事変のきっかけとなった一九二八年張作霖爆殺事件を計画した関東軍河本大佐のことにふれながら開会のあいさつを行った。
 続いて、南京郊外の湯山での聞き取り調査の補足報告の後、陳広順さん(82歳・南京事件の生存者)が証言した。
 日本軍部隊は食料と女性を捜して南京郊外の西崗頭という村に入った。陳さんは当時十四歳だった。中国兵は戦意がなく逃げたため日本軍は難なく村を占領し、至る所で放火し、食料や鶏・ブタ・牛を略奪し、理由なく村民を銃殺し、二歳の子を抱いている女性を強姦した。
 村民は裏山に逃げた。捕まえた二十人ほどの村民を小学校の庭に集めてひざまずかせ、機関銃掃射で殺した。陳さんは日本兵にかわいい子だと言って機関銃の後ろに立たされていたので、一部始終を目撃した。その後日本兵は死体をそのままにし、広場で食事をした。食事がすむと死体を蹴飛ばし一人ずつ銃剣でさして死んでいることを確認した。陳さん自身も兄と親戚二人を殺された。
 陳さんは、「村民を殺した後銃剣で突き刺す日本兵の残忍さにたいする恨みを伝えに来た。自分が死んだら三人の子が恨みをはらしてくれる」と語った。

「三重の被爆者」
と語る郭貴勲さん

 続いて、郭貴勲さん(韓国原爆被害者協会会長)が証言した。
 朝鮮人に徴兵制が適用された第一期生で、師範学校四年の時に徴兵されて満州国境の部隊に配属され、釜山経由で広島につれてこられ、西部第二部隊に入れられた。
 その後郭さんは士官候補生になり、工兵隊に配属された。運命の八月六日、作業場に出発するとき、北に向いていたB29の機体が方向転換するのが見え、その瞬間巨大な火の玉が天と地を覆い、熱いと感じた。ガソリンをまいた後に焼夷弾が落ちたと思った。その後は真っ暗闇の中をただ北に走り続けた。途中から黒い大粒の雨が降り始めた。
 壕に入って自分の体を調べてみると、頭や腕から血が流れ、ほほからうなじにかけて黒く焼け、背中も大部分やけどをしていた。初めて痛みを感じた。
 翌日、東練兵場に救護班が来るというので行ってみたが、中に足を踏み入れた瞬間、この世で二度と見ることができない悲惨な光景を見た。郭さんそこに三日いて、何万とも思えるほど多くの人が呻きながら死んでいくのを見た。
 その後故郷に帰ったが、徴兵され、被爆し、故郷に帰った後は六十年放置された。三重の被爆者だと郭さんは言った。裁判で勝訴し、現在韓国で被爆手帳を持っている人は二千百人、持っていない人がまだ三百五十人いると語った。
 次は、小田実さんの講演。小田さんは終戦時十三歳、戦争を知っている最後の世代。戦争を語る責任があると言い、中国・韓国が言うからするというのではなく、内在的な批判が必要だと語った。
 大阪空襲は三度経験した、最後は八月十四日。当時これを命令したカーチス・ルメー将軍は後になって天皇から勳一等旭日大綬章をもらっている。大阪空襲は大都会の中での虐殺だった。小田さんは、最後に彼の友人で有名な前衛詩人が書いてくれたという「南京虐殺」という詩を紹介して講演を終えた。

靖国参拝を支持す
る日本人に驚いた

 休憩の後、浅田義信さんのコーディネートでパネルディスカッションに移った。日本の立場で渡辺厚子さん(東京都「日の丸・君が代」被処分者)、中国の立場で高文軍さん(桜花学園大学教員)、 朝鮮の立場で金昌五さん(在日韓国統一連合大阪府本部事務局長)が登壇。
 渡辺さんは、二〇〇三年からの都教委の処分を報告し、被処分者対象の再発防止研修(05年7月)にゼッケン・はちまき・Tシャツ着用で出席した者と未受講者に対して、つい先日の十二月一日付で減給・戒告の処分がでたことを報告。初任者研修などで自衛隊見学が行われているが、参加者から有意義であったとの感想もあるという。
 高さんは日本にきて、南京を教えない、首相の靖国参拝を多くの日本人が支持していることにびっくりしたと語った。
 日本は過去に犯した重大な罪に対する深い反省もない。小泉首相の言う「心」とはどんな心か、良心を持っているなら自分の心をのぞいてみてほしい。安部氏も麻生氏も「国のために殉じた方々に敬意を表している」というが、侵略の先兵を「殉国の士」にすり替えている。日本の将兵も「国のため」という思いはあったかもしれないが、向こうの土に足を踏み入れてからは「鬼の心」に変わった。被害者側から見れば鬼と言うほかない。虐殺の張本人が英雄とされる、こんなことはどこの国でも認められない。
 金さんは、逆流は二〇〇二年九月十七日(日朝平壌宣言)から始まったと語った。日本は拉致一色に塗り固められ、反北朝鮮になった。この情勢を日本を軍事大国化するために最大限利用し、戦後補償を回避するために。日本の平和勢力を北朝鮮支持者として口封じをするために。
 「直接平壌に行ってほしい。韓国を通して北や米国の姿に接してほしい」と訴え、最後に、「希望に満ちた人はその人自身が希望であり……すべては人から始まる、再び人間こそが希望だという韓国の詩人の詩を披露した。
 最後に李清一さんが終わりのあいさつをし、日本では強者の論理が強くなっている、行き着く先はという不安があるが、それぞれ日中韓民間レベルの空間を広げ平和と和解と協力のもとで、新たなプラットホームをつくろうと締めくくった。      (T・T)


D・ラミスさん憲法を語る
「平和憲法」を「守る」のではなく「実現」を

 【大阪】十二月十日、エルおおさかで「ダグラス・ラミスさん平和憲法を語る」憲法集会が関西共同行動の主催で行われた。
 主催者を代表して和田喜太郎さん(関西共同行動の共同代表)が開会のあいさつをした。和田さんは、今年一年間の闘いをふりかえりながら、「関西共同行動の今年の単独の集会はこれで最後です。きびしい現状ではあるが、来年も元気にたたかっていこう」と述べた。
 ラミスさんは「歴史の出来事としての憲法、法としての憲法、実際の政治としての憲法」の三つの観点から講演をした。
 「日本の憲法は政府の権力を減らすために作ってある。第一条から第八条までが天皇の権力を減らすため。第九条から第四〇条まで政府の権力を減らし政府がやってはいけないことが書いてある。四一条になってやっと政府が権力でもってできることが書いてある」。
 「その中に九条があります。戦争をやってはいけないが、その準備や威嚇をしてもいけない。国民から政府への命令としてあるわけです。主権在民。主語は日本国民。戦争をする権利をわたしたちは認めない。そういうものだ」とラミスさんは話した。
 押しつけ憲法という主張に対しては「そのとおりだ。どこが悪いといえばいい。良い憲法というのは国民の側から政府権力に押しつけるものだ」と主張した。「問題はだれがだれに押しつけたのかだ」と。「アメリカが押しつけたというのは間違いだ。政府にとっていやなものだけど、国民は喜んで受け入れたと思う」。
 「交戦権」と「自衛権」についてラミスさんは、「国連憲章は自衛権を認めているが、日本国憲法は『交戦権』を認めていない。9条には自衛権という言葉はない」とし「世界の中でも交戦権のない国の軍隊は日本の自衛隊だけだ。今、イラクに自衛隊がいるが戦争はできない。基地からあまり出ないそうだ。これではなぜ銃をもっているのか分からない。だからといって、銃を撃てるように憲法を変えるのではなく自衛隊を戦場に送らないことがだいじだ」と訴えた。
 ラミスさんは、「歴史として、文書としてはすばらしいが、実際の政治としての憲法はどうか」と問題提起し、「絶対に軍隊は持たせない。平和憲法を変えるべきではない。米軍の基地を沖縄につくってキーストーンにしそこから日本を守ればいい」と言っているマッカーサーの言葉を紹介し「今、現在の九条を守ろうとしている人の中にマッカーサー的な考えをもつ人はいないだろうか?安保について語らないのは、沖縄に米軍基地があってもいいということにならないだろうか?」と問いかけ「憲法を守る。9条を守る=現状維持ということになっていないか。憲法を守るというのではなく、憲法を実現するというというふうにすればいい」と訴えた。
 その後、ラミスさんはインドでのガンジーの平和主義についての研究の一端を紹介した。
 講演の後、参加者からの質疑応答があり、九条の会・豊中いちばん星、おおさかユニオンネットワーク、「憲法9条を守り、生かす吹田の会」がアピールを行った。
 最後に関西共同行動の共同代表の中北龍太郎さんがまとめを行い「自民党の改憲草案、米軍再編の中間報告と矢継ぎ早に打ち出される中、来年は国民投票法案が国会にいよいよ提出されようとしている。来年も明るく楽しく闘い、改憲を阻止しよう」としめくくった。      (M)



コラム

 銭湯物語 V


 この歳になって、初めて内風呂のある部屋に住んだ。このありがたさを痛感したのは忘れもしない、昨年の「9・11 WPN集会」の夜だ。暴風雨に叩かれ、ずぶ濡れになって帰宅した。玄関で濡れた服を脱ぎ捨てるとすぐ浴槽につかった。冷えきった身体に温かさがしみた。この日はさすがに銭湯へ行く気力はなかった。
 それでも週に最低二度は必ず通っている。浴室の掃除が面倒だったり、疲れがひどいときなど、つれあいと二人で出かける。本シリーズで書いているように、都内の銭湯は激減しているが、転居した自室の周辺は意外な密集地だった。その日に行く銭湯をあれこれ選ぶのも楽しい。
 新しいスタイルの銭湯は、下駄箱の先に共通のカウンターがあり、そこで料金を払ってから男女が分かれる。脱衣場の横には休憩室があり、ソファー、新聞やテレビ、自販機が置いてある。湯あがりに家族が揃ってくつろげる空間である。同じ料金を払うなら、長くいられるこの構造に人気が集まるのもうなずける。しかしいいことばかりでもない。この形式ではカウンターからは脱衣場や洗い場が死角になる。シャワーの出し放しや足拭きマットが濡れていたり、煙草の灰が床に落ちていても、そのまま見過ごされたりする。
 旧来のレイアウトなら、すべてが番台から見渡せる。洗い場で遊んでいる子供や、マナーの悪い客、脳卒中などの思わぬ事故にも、しっかりと目が行き届くのである。ただし銭湯によっては極端に客が少ないために、洗い場が冷えることや、循環する給湯温度が一定しないことがある。冬場にこれはつらい。熱い湯は水でうめられるが、ぬるい湯は熱くはできないからだ。
 昨年来の原油価格の高騰は経営を直撃している。「燃料のA重油は販売価格で一キロリットルあたり六万円を突破〜(この急騰は)オイルショックの時でもなかった」(十月八日・東京新聞)という。入浴料は独断で値上げできないから、収入減に直結する。湯の温度を下げれば燃料を節約できるが、熱い湯を楽しむ常連客からは苦情が出る。内風呂にはない熱いたっぷりのお湯を求めて、遠路はるばる客は集まるからだ。壁を挟んだ家族の呼び声が聞こえないときは、主人や他の客が教えてくれる。これが番台の利点であり、客同士のコミュニケーション、銭湯風情というものだろう。
 銭湯を気持よく利用するために、利用者のマナーと経営者の努力は欠かせない。行政の援助も不可欠だ。朝湯など年末年始の特別営業を除けば、今や二、三回通えば顔を覚えられるほど客は少ない。絶滅の危機から救うためにできることは、とにかく私たちが足繁く通うことなのだ。  (隆)


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