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大江・岩波沖縄戦裁判第6回口頭弁論          かけはし2006.11.27号

「集団自決」軍命令不存在の主張を原告側が撤回した



 【大阪】大江・岩波沖縄戦裁判第六回口頭弁論は十一月十日、大阪地裁で開かれた。今回の傍聴者は前回までより若干少なく、原告被告それぞれ半分ぐらいずつであった。
 まず、前回出された原告準備書面に対して被告側から反論が述べられた。原告の主張は、座間味島梅澤守備隊長と渡嘉敷島赤松守備隊長の「集団自決」命令はなかった、の一点である。
 その根拠の主なものは、@『母が遺したもの』(宮城晴美著2000年出版)の中で、当時青年団長だった彼女の母、宮城初枝さんが一九四五年三月二十五日梅澤隊長に会った際には隊長の自決命令はなかったと告白していることA宮城初枝の証言「梅澤隊長は『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と武器提供を断った」(1985年神戸新聞)B座間味村援護係宮村幸延氏の「隊長命令説は遺族等援護法の適用を受けるためにやむを得ず作り出されたもの」という証言とインタビュー記事(1987年神戸新聞)C『ある神話の背景』(曾野綾子著1973年出版)の中で、現地調査の結果、赤松隊長の自決命令の証言はなかったと記されていること。この四点である。

自決命令の存在
を立証する証言

 被告側は、宮城初枝さんが梅澤隊長に面会したときに隊長から直接の命令がなかったとしても、それをもって日本軍の隊長命令がなかったということにはならないこと、宮村幸延氏の証言については、泥酔させられた同氏が 原告梅澤から「妻子に肩身の狭い思いをさせたくない、家族だけに見せるもので絶対に公表しない」と言われ、何の証拠にもならないことを申し添えた上で作成させられたものであること、『ある神話の背景』は一方的なもので、事実の記載について信用性がないと主張した。
 事実、一九八七年以降沖縄タイムス社や沖縄県援護課の問い合わせに対する座間味村の回答においても、自決命令があったとする多数の証言があることが記載されている。また、『鉄の暴風』(沖縄タイムス1950年発行)や『沖縄県史第8巻』(1946年発行)、『沖縄県史第10巻』(1989年復刻)は、二〇〇〇年に『母が遺したもの』が出版された後においても、現在に至るまで隊長の自決命令は訂正されることなく出版されているし、『渡嘉敷村史』(1990年発行)にも、隊長による集団自決命令があったことが明記されている。
 また、朝日新聞(1988年)は、「一九四五年三月二十日頃赤松隊の指示により集められた村民に対し、兵器軍曹が二個ずつ手榴弾を配り、一個は敵に投げ残る一個で自決せよと訓示し、二十七日に隊長は兵事主任を通じて住民を軍陣地近くに集結させ、翌日住民は集団自決を図った」との証言記事を掲載している。

原告側の手前
勝手な言い分

 この日の口頭弁論では、被告側反論につづいて原告側の主張が述べられた。原告の見解では、岩波書店の出版物が違法になるその時期は、座間味島の関係では神戸新聞に記事が掲載された一九八五年の時点、渡嘉敷島の関係では、『ある神話の背景』が出版される一九七三年以降という。この日の口頭弁論では軍命令はなかったとの従来の主張を修正し、軍命令はあったことを認めた上で、その命令を隊長が発したとは(県史や村史などには)記されていない、村長や助役・防衛隊長を通じて伝達された命令を聞いた住民が軍の命令であると受け取ったのだという主張である。
 彼らは、宮村盛永さん(座間味村幹部宮里盛秀さんの父)の自伝の中の都合のいい部分だけ「……玉砕するのがましではないかと家族で相談、皆賛成」を引用し、玉砕は住民の自然の発意だったという(ところが、その部分の前後の記述をみるとそのような意味にはとうてい読みとれない)。
 渡嘉敷島の村長は生き残ったが、彼は自決せよと言っておきながら生き残ったことを戦後になって責められたので、軍の命令だったと言い逃れをしたのだ、と原告は主張する。「赤松隊長は命令は出していないが、軍命令だとすれば援護法が適用されることを知っていたので、あえて反論せず黙って死んでいった(沖縄戦では米軍に逮捕されている)。そのようにさせた沖縄の人々の罪は非常に大きい」、とまで露骨な主観を述べている。
 次回口頭弁論の日程が来年一月十九日、三月三十日と確認され、この日の裁判は終了した。

真実を明らかに
したくない原告

 夕刻から、大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会主催の裁判報告会と学習会が開かれた。共同代表の西浜さんより、関東学院大の林博史教授が発見した慶良間・集団自決発生直後の米軍の記録(1945年4月3日付け)が十月三日に沖縄タイムスに掲載されたこと、雑誌『正論』(06年9月号)で原告代理人の徳永弁護士が原告の主張をそのまま展開していることについて、十月十七日安仁屋政昭・大城将保・宮城晴美さんの抗議声明と記者会見があったことなどの報告があった。小牧事務局長は裁判が始まってからほぼ一年、ホームページもできたことを報告。
 岩波書店の岡本厚さんはあいさつで、「米軍上陸というパニック状態の中での『自決』をどうとらえるか、想像力が問われている。原告側は真実を明らかにしようと思ってこの裁判をやっていない」と述べた。秋山弁護士は、「(原告が従来の主張を撤回したことで)原告・被告の主張が従来より接近してきた。今までのような口頭弁論は一月で終わり、三月三十日には、証人調べのプランを確認することになろう。そうなると民事では、裁判はトントン拍子に進んでいく」と述べ、引き続きの支援を訴えた。

「国に殉じた死」
を美化するな!

 学習会では、津田則光さん(沖縄平和ネットワーク)が「原告のねらいを沖縄から衝く」と題して講演した。津田さんは、沖縄戦の特徴(住民を巻き込んだ国内最大の地上戦、沖縄差別の戦争、終戦のない戦争、人間性破壊の修羅場、国体護持の戦争)を詳しく説明し、裁判に出てくる事柄を一つ一つ分析して、原告側の論理の乱暴さを指摘した。そして、「原告は形式論として『隊長命令』の有無のみを問題とし、『集団自決』そのものについて、自発的な犠牲的精神の発露ととらえている。原告が隊長命令の有無のみの土俵で争えば争うほど、彼らの意図する『集団自決』の価値判断は争点とはならなくなる。軍命令有無の根拠を掘り下げれば掘り下げるほどその事実が明らかにされる。いよいよこれからは軍命論をやるべきだ。そうすれば、沖縄戦とは何だったのか、『集団自決』とは何だったのかに行き着く」と述べた。
 学習会の最後に、朴寿南さんから、ドキュメンタリー映画「玉砕場からの証言」(朴寿南監督作品第3作目)が二〇〇七年三月から上映の予定であるとの報告があった。
 曾野綾子は『ある神話の背景』で、「国に殉じるという美しい心で死んだ人たちのことを、何故、戦後になって、あれは命令で強制されたものだ、というような言い方をして、その死の清らかさをおとしめてしまうのか」と言っている。彼女は、自決命令は出していないのにその責任を問われているとし隊長に同情する一方で、パニック状態の中で引き起こされた沖縄県民の悲劇を、清らかな死とみるのであろう。このようにして歴史を白を黒とするように修正しようとしているのである。このような傾向は靖国裁判の靖国応援団に共通する態度でもある。(T・T)




寄稿
補給艦「とわだ」のアラビア海派遣に抗議し海上デモ
                          呉 湯浅一郎

 十一月十二日ピースリンク広島・呉・岩国は、十月に三度目の延長をされたばかりの「テロ対策特別措置法」に基づく補給艦「とわだ」のアラビア海派遣に抗議し、派遣部隊の即時撤退を求める海上デモを行った。
 今年初の冬型気圧配置が始まるということで、強風・波浪注意報が出ていた。しかし、何とか、風もなく、かえってポカポカ天気になった。
 急だったこともあり、参加者は、九人(子どもを入れて11人)、五隻と、今一つであったが、海上デモを行った。心配されていた風と波はそうない。呉基地のFバースには、北側に「とわだ」がいるだけで、手前には艦船もおらず障壁がない、おあつらえ向きの位置関係である。
 平和船団は九時三十分には、Fバースに接近。自衛官が整列し、周りに見送りの家族などが集結している様子が手にとるように見える。
 ハンドマイクによるアピールを三十分近く、じっくりと行うことができたのは良かった。藤井さんによると、女性が手を大きく振ってくれた。また、小さく横に振る人もいたとか。相当程度、声は響いていたらしい。ちょうど、壮行式を行っていたので、かなり効果があったのではないかと思う。
 十時前に、いかりが上げられ、出港だ。甲板に直立不動でいた隊員が、一斉に動き始めた。走り出した「とわだ」に沿って、動くこと十分。久野君が、久野節でシュプレヒコールを連発。かなり沖に出てきたので、ストップして、コールを繰り返した。小うるめ島の灯台を大回りして遠ざかるあたりまで見届けてから、Fバースへと戻った。Fバースの北側に戻り、残っている少数の隊員と家族に訴えを続けた。
 十時三十分には、上陸し、まず片づけた後、十一時、自衛隊の坂下門で、抗議文を手交した。「朝日」は、十二日の朝刊の「とわだ」が出ることを報じた記事の中で、「ピースリンクは抗議行動をすると」書いてくれた。自衛隊から見れば、壮行式の真最中に、三〇〜五〇メートルくらいから、割合冷静で、穏やかな調子ではあるが、派遣に強く抗議するとともに、自衛官と家族に思いの内部に訴えかけるアピールができたことは大きい。自衛隊側からすれば、やな感じであったろう。しかも、家族の中に、手を振ってくれた人がいたのも驚きである。

【訂正】本紙前号(11月20日号)4面「防衛省設置法反対」記事6段8行、7段7行目の「法人輸送」を「邦人輸送」に訂正します。



コラム

「豊かさ」の基準


 十一月十六日、「日本版エグゼンプション、断固阻止! 役に立つ労働契約法を決起集会」が開催された。労働法制の改悪に反対する集会は多くの場合、労働弁護団や労働政策審議会に参加している労働側委員が基調報告を行うのが一般的である。このパターンでない時でも基調報告は労働法の学者が行うくらいである。
 だがこの日の基調講演はそのいずれでもなく文化人類学が専攻の辻信一明治学院大助教授であった。パンフレットで初めて知ったのだが、彼は「スロー」の大切さを説き、環境問題を経済活動から変えていく「環境文化NGO ナマケモノ倶楽部」を組織して活動している。今年の八月に出版した『ハチドリのひとしずく』がNHK報道番組で取り上げられ、ハチドリTシャツを着て環境運動をする若者の活動が紹介され、小泉今日子がボランティアで朗読したことで、その世界ではすっかり「有名人」になったらしい。
 「ハチドリのひとしずく」は南アメリカに伝わる古い物語で、字数にして二百字程である。「森が燃えている。動物たちが次々に逃げて行くなか、一羽のハチドリが水をひとしずくずつ運び火の上に落としていく。そんなことをしていったい何になるんだ。ほかの動物たちが笑うと、ハチドリは答える。『私は、私にできることをしているだけ』」。
 彼は講演の冒頭から、「GNPで豊かさを計る時代を終わらせなければならない。Pは商品であり、商品がやりとりされたお金の量であり、そのようなもので豊かさを計るべきではない。GNH、つまりH=ハピネス、幸福という新しい尺度を確立すべきだ」と報告した。なんとなくわかるような気はするのだが、哲学的でスッーと落ちていかない。全面的賛同したのは、「スローライフ」の中心をなす「『時間』が企業や資本に奪われ、ハイテクが省いてくれたはずの『時間』は一体どこに消えたのか、家族や友人と食事を楽しむ余裕も日本人にはない」という点であった。
 「豊かさ」とは何か、わかるようでわからない。「便利さ」とは明らかに違うし、個々人でも多少違うような気がする。しかし「豊かさ」の上に「国の」や「社会の」をつけると問題の性格が一定はっきりするような気がする。
 昨年増刷された暉峻淑子の「豊かさとは何か』(岩波新書)の中で、『豊かさに憧れた日本は、豊かさへの道を踏みまちがえたのだ。富は人間を幸せにせず、かえって国民の生活を抑圧している。たとえば、ありあまるカネは地価を天文学的に暴騰させて、つつましい勤労者たちから住居を奪った」と語り、「(日本の労働時間は、2387時間で)西ドイツよりも年間、約五百時間も長く、アメリカ・イギリスよりも約二百時間も長いと言われている。とくに日本特有の休日出勤や残業などの所定外労働時間は一九七四年にくらべて、約二倍の長さになっている。……さらに日本の場合、(世界に例をみない程)長い労働時間に長い通勤時間が加わる」。
 「豊かさ」は彼女の言によると「人間らしさ」と重なる。そして「人間らしさ」は余裕やゆとりと一体である。そして「労働時間の長短」は余裕・ゆとりと固く結びついている。
 「日本型エグゼンプション」が導入されれば、さらに「豊かさ」や「人間らしさ」が奪われることは明白である。 (武)


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