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イスラム的「中国モデル」               かけはし2006.11.20号

「改革」の失敗とイスラム原理主義支配

経済レベルは純粋な自由主義国内政治は絶対的抑圧体制
                            フーシャンク・セペール


腐敗と貧困、青
年の失業率40%


 四分の一世紀以上におよぶイスラム体制を経て、イランの経済は深刻な混乱の中にある。国際金融と国際通貨基金(IMF)などの組織の要求に対応したアリ・アクバル・ハシェミ・ラフサンジャニとサイード・モハマド・ハタミの二人の元・前大統領に体現される、イスラム体制の「穏健」で「改良」的な一翼は、状況を改善することができなかった。
 腐敗・汚職は、体制を沈没させた。多くの役人たちは、外国貿易の国家独占に支えられた闇市場を通じて大金持ちになった。他の者は、以前は国営だった企業をきわめて安価に購入して富を手に入れた。「フォーブス」誌によれば、ラフサンジャニとその家族は国家の富の四分の一近くをすくい取った。それにより彼は世界で最も金持ちの一人になったが、なかんずくイランで最大実力者になったのである。イランの人びとは、イランはラフサンジャニの私的株式会社になってしまった、とよく語る。それはイランをそれぞれ一家族に地域を割り当て分割する、資本家マフィア体制である。ラフサンジャニは石油、ピスタチオ(香料に使う木)、武器取引業を所有し、ジャナティは砂糖の独占を手に入れ、パスダランスは化粧品と麻薬取引を手に入れた、などなどである。
 世界の銀行における外貨資産と金保有高の格付けによれば、イラン・イスラム共和国は四百億ドル以上を有しており、米国の資産額の半分にもなる。それによりイランは世界の最富裕国の一つとなっているのである。さらにこの報告によれば、他の多くの国の場合とは異なり、こうした資産の多くは個人口座の形で保有されているのである。
 これらの数字は、同時にイラン共和国の対外債務が休みなく増えつづけていることで、いっそう際立ったものになる。約二百四十億ドルの対外債務と百十億ドルの中央銀行債務は、イランの経済に重くのしかかり、イスラム体制のマヌーバーの余地を狭めている。
 炭化水素価格の記録的上昇により、石油輸出諸国は債務を短期間で返済することができた(ロシアは百五十億ドル、メキシコは七十億ドル、アルジェリアは八十億ドル)が、テヘランの政権は債務を返済できず、逆に増大することになった。イランの債務は、二〇〇四年には百二十五億ドルだったが、二〇〇五年には百七十億ドルに上昇し、二〇〇六年夏には二百四十億ドルになってしまったのである。
 イランは現在の石油価格の爆発的上昇から利益を得ることができなかった。なぜなら現体制はイラン産石油を市場価格で売らず、一バーレルあたり八ドルから十八ドルで買い戻しているのである。米国エネルギー情報センターによれば、イランは二〇〇五年に石油とガスの備蓄を最も増大させた国である。老朽化した石油産業は巨額の投資を必要としている。石油部門だけでイランが必要としている投資は、一千億ドルになると見積もられている。
 青年の失業は猛烈な勢いに達している。信頼できる統計はないのだが、多くのアナリストたちは、失業率は四〇%近くになっていると見ている。
 イランの人口は革命以後、急速に増加した。現在七千万人のイランの人口のうち半数は十八歳以下であり、こうした青年たちに仕事を提供するためには、年間百万の新規雇用を創出する必要がある。実際にはGDPの成長は低下している。失業問題は、とりわけ都市の青年たちの間で深刻になっている。学校を卒業した若者たちは、雇用機会がないことにとりわけ敏感になっている。
 最近の国連の報告は、イランの五十五万人以上の子どもたちが一日一ドル以下で暮らしていることを明らかにした。同じ報告によれば、石油価格がこの二年間で三倍になった中で、人口の三五・五%は一日二ドル以下で暮らしていることが明らかにされた。
 公式には、この体制は「議会」、野党、そして「改革派」さえも有している共和国であるが、実際には宗派イデオロギー的な全体主義体制であって、氏族の権力が絶大であり、個々のイラン人への宗派的宗教規律による掌握が普遍的に存在している状態では、それを「独裁」と性格づけることさえできないほどである。

しのびよる
クーデター?

 イラン民衆が、イスラム体制が「大統領選挙」と呼ぶ茶番劇に参加するよう求められているのは、こうした政治的・経済的情勢においてである。この「選挙」という言葉は、大統領選挙の候補者が前もって自らの権限と宗教的道徳の水準に基づく見解を発する革命防衛評議会によって選択されるのであるから、不適切なものである。体制の中の相反する分派の矛盾と緊張によって、二〇〇五年選挙の「仮面舞踏会」は、初めて二幕の劇として行われたとされている。
 大統領候補となりうる者が千人以上いる中で、イスラム憲法の番犬である革命防衛評議会から不適当だとして拒否されなかった者はわずか五人だった。選ばれた五人の候補者とは、当時文化相だったモイン(改革派の候補)、前大統領で体制の実力者であるラフサンジャニ、当時イスラム議会の議長だったカルービ、人びとには無名で、政治の場の外部にいたテヘラン市長のアフマディネジャド、そして五番目はそれまで知られていなかった男である。
 第一回目の投票は驚きをもたらした。無名のアフマディネジャドが全能のラフサンジャニを破って六百五十万票を獲得し、第一位となったのである。第二回投票では、四千七百万人の有権者のうち投票したのは二千九百万人だけだった。アフマディネジャドは千七百五十万票を獲得した。アフマディネジャドへの投票が、なによりも当初から体制を体現していた人物であるラフサンジャニへの圧倒的な「ノー」を意味していたことは明らかだった。民衆は自らの意思を表現する機会を与えられるたびごとに、そのチャンスを捉えて、体制への拒否を表現する国民投票として利用したのである。
 しかしこの選挙ではもう一つの別の要素が浮上した。革命防衛評議会の役割である。革命防衛評議会体制は、全国家機構と全宣伝機関を使ってアフマディネジャドを支援した。体制側は、経済的・政治的領域におけるいわゆる「改革」の全面的失敗に直面して、新しい戦略に向かった。それは経済レベルでは純粋な自由主義、国内政治のレベルでは絶対的抑圧というものであり、つまりイスラム的「中国モデル」である!
 数年前、サミュエル・ハンチントンの著名な書『文明の衝突と世界秩序の再形成』の翻訳本がテヘランに現れた。編集者は印刷部数の半数にあたる千部の注文を受け取った。配本者は思い起こしている。「われわれはこんな量の注文を誰がしたのか不思議だった。われわれはイスラム革命防衛隊(IRCG)に属する軍トラックが到着し、本を持ち去ったので、答えが分かった」。この本を受け取った士官の一人にヤフヤ・サファビがいた。今彼は将軍で、革命防衛隊の最高司令官である。別の一部は、マフムード・アフマディネジャノのもとに渡った。彼は現在、イラン・イスラム共和国の大統領である。
 近年イランの体制は、さまざまな手段で防衛隊の手に滑り落ちた。IRCGの元士官イブラヒム・アスガザデフは、新たな政治・軍事エリートは「しのびよるクーデター」を煽ってきたと自ら述べた。前大統領のモハメド・ハタミがホッブスとヘーゲルを引用して西側の世論に強い印象を与えようとして世界中を外遊した一方で、革命防衛隊はイラン中に強力な民衆的ネットワークを築き上げ、きわめて尊敬されている二つの政治組織を創設した。原理主義組織のウスラガランと、自己を犠牲にする人びとの組織イサルガランである。両者は、士官、公務員、企業家、知識人の若い世代を引きつけている。
 二〇〇三年に、このネットワークはテヘラン市議会の支配を手に入れ、アフマディネジャドを市長に任命した。二年後、アフマディネジャドは革命防衛隊の大統領候補として登場し、世界中で最も金持ちの一人であり、消え去りつつあるムラー(宗教指導者)の古くからの支持者の代表である元大統領ラフサンジャニを打ち破った。

アフマディネジ
ャドとは何者か

 アフマディネジャドは一九五六年に生まれ、テヘラン南部の貧しい地域で成長した。一九七五年、彼は技師になろうと大学に進学した。
 イラン革命の時期、アフマディネジャドは超保守的なイスラム原理主義組織であるイスラム学生協会の指導者となった。それから彼は一九七九年十一月のテヘランにおける米大使館占拠で役割を果たした。ホメイニが「イスラム文化革命」を呼びかけた一九八〇年の大学における弾圧の際、アフマディネジャドと彼の組織は、その多くが逮捕され処刑された異論派の教師と学生の追放に重要な役割を果たした。大学は三年間にわたって閉鎖され、アフマディネジャドは革命防衛隊に参加した。
 一九八〇年代初頭、アフマディネジャドは革命防衛隊の「内部保安」部門で活動し、尋問官で残忍な拷問家という評判を獲得した。しばらくの間、彼はエビンの死の監獄で拷問家であった。彼は一九八〇年代の虐殺において、何千人もの政治囚の処刑に参加した。一九八一年、彼は恐るべき訴追処刑部隊ラジェバルディに参加した。同部隊はエビン監獄から夜毎に作戦を展開して数百人の囚人を処刑した。彼は当時「とどめ打ち」というあだ名を付けられた。彼は、死にかけた人びとに最後の弾丸を発射する男だった。
 イラン政権の海外でのテロ作戦に関わった彼は、中東と欧州での一連の暗殺を背後から指導した。有名なのは、一九八九年七月にオーストリアのウィーンのアパートでクルド人指導者ガセムローを暗殺した件である。
 彼は一九九三年からマコウとコイで数年間市長をつとめた後、文化・イスラム指針相によって文化顧問官に任命された。数カ月後、彼はアルデビル州の総督に任命された。一九九七年、新たに樹立されたハタミ政権は、アフマディネジャドをそのポストから交替させ、彼は大学に戻った。しかし彼の主要な活動は、超暴力的なイスラム民兵である「アンサルエ・ヒズボラ」を組織することだった。
 アフマディネジャドは二〇〇三年四月にテヘラン市長になった後、強力な原理主義者のネットワーク「アバダグラン・イラン・エスラミ」(イスラム的イランを発展させる人びと)の建設に着手した。アバダグランは革命防衛隊と密接に連携して活動し、二〇〇三年の自治体選挙と二〇〇四年の議会選挙に勝利した。アバダグランは自らを、体制の創設者であるアヤトラ・ホメイニの理想と政治を復活させることを願うイスラム新原理主義青年グループと主張した。それは二〇〇〇年二月選挙後に、辞職したハタミ大統領の分派と闘うためにアヤトラ・ハメネイが最高指示の下に設立された多くの超保守主義グループの一つだった。
 アフマディネジャドのバランスシートは、宗教的エリートのアイデンティティーに新たな顔を与えるためにハメネイの側近に選ばれた男の典型である。しかしその外観は薄っぺらなものだ。そして明白に専制主義である。
 アフマディネジャドは、一九八一年以後、大統領になった初めての非ムラー候補である。彼の穏健な出自と、デマゴギー的でポピュリスト的な言説は、少なくとも大統領選挙の間は、住民の一部、とりわけ腐敗した宗教支配者たちに見捨てられたと感じている貧しい人びとの信頼を獲得した。しかしイランは深刻な社会危機に瀕している。二十年以上におよぶムラーの統治の後に、大衆は多くの怒りと不満を蓄積してきた。体制内部の青年の運動と公然たる分岐は、せり上がる危機の明白な兆候である。

 (フーシャンク・セペールは、亡命イラン人の革命的マルクス主義活動家。ペルシャ語で発行されている評論誌「マルクス主義の擁護」の責任者で、イラン労働者連帯委員会の指導者)

(「インターナショナルビューポイント」電子版06年10月号) 


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