『検証 党組織論』に寄せて かけはし2004.07.12号 |
「リゾーム型組織論」は集団的意
思決定に民主主義を保証しうるか |
小西誠らの「民主集中制」見直し論
社会批評社から『検証 党組織論』が今年の三月に出版され、本紙読者の景清氏の書評が本紙4月19日号に掲載された。私も出版後間もなく同書を読み、景清の文章にも触発されて何か書かねばならぬ、と思った。
『検証 党組織論』は、著者の小西誠、吉留昭博、生田あい、いいだもも、来栖宗孝、木畑壽信氏らによる前衛党組織論の批判的見直しをめざす共同研究の成果とされている。その批判的見直しの対象は、レーニンとボルシェビキの「中央集権制」原則にあてられている。
論者によって重点の置き方は異なっているものの、小西、生田、木畑らの結論は、従来のレーニン・ボルシェビキ・コミンテルン型党組織論をつらぬく「中央集権」型党組織論は「抑圧の体系」であり、それにとってかわるものとして多元的でネットワーク的な「リゾーム型」(水平的根茎的)組織観こそが求められている、というもののように見える。
私も、今日の多様な社会運動を基礎にした新しい複数主義的で民主主義的な革命党の組織原理が、どのように構想されなければならないのかという点について大いに論議する必要性を痛感している。しかし本書で書かれている内容は、一九二〇年代以後に「聖典」化されたスターリン主義型の「民主集中制」型組織論の抑圧的性格を批判する際に、党組織が集団として持たざるをえない「集中制」がどのように機能すべきかという点の追求を事実上放棄しているのではないか、と感じざるをえなかった。
その点で私は、景清の「中央集権は民主主義と共働するメカニズムの中で、党と大衆運動に貢献する『本来的役割』を果たすことができると考えている」という意見に、基本的に賛成である。
小西誠は、本書の第1章「日本における左翼諸政党・諸党派の組織論」の中で党中央による党員・大衆への「抑圧装置」に転化した「民主集中制」に代わって「党員主権(党員の自己決定権)、民主自治制(分権制)、直接民主主義、公開制」の四原則による「解放型」組織原理を提起する。
生田あいは、ローザ・ルクセンブルクの有名なレーニンの「一歩前進、二歩後退」批判(「社会民主党の組織問題」、一九〇四年)を積極的に評価する一方で、「ローザはこの時点で中央集権制一般を否定していないという歴史的限界を持っている」と述べる。しかし「中央集権制一般を否定」することなどできるのだろうか。生田もまた小西の「四原則」を新しい党解放組織の「組織原理」として主張している。
民主集中制の意義―13年前の試論
私は、十三年前の「世界革命」91年8月12日号に「いま『民主集中制』をどのように考えるか」という論文を書いた。この文章は、東欧のスターリニスト官僚独裁体制の崩壊、旧第四インター日本支部の分裂、党組織のあり方をめぐる分派的論争の中で、あらためて「民主集中制」についてのわれわれ(JRCL)の立場を整理しようと試みたものであった。この論文は、その後刊行された『トロツキー研究16号 特集レーニン党組織論批判』(一九九五年夏号)所収の諸論文などによって豊富化されるべきであるが、私の立場はこの論文の趣旨と今も大きく変わってはいない。
いまだに誤解されることが多いのだが、レーニン党組織論の基礎をなすものとされている「なにをなすべきか」(一九〇二年)や「一歩前進、二歩後退」(一九〇四年)は、決して「民主集中制」の主張を展開したものではない。
この両著作には「民主主義」の契機はふくまれていない。その意味で「民主主義なき中央集権主義」と規定できる。「民主集中制」が党組織論の原則として定式化されたのは一九〇五年春の党第3回大会(ボルシェビキのみの単独大会)ならびに同年十二月のタンメルフォルス協議会においてであった。
私はこの一九九一年八月の論文の中で、「民主集中制」原則を、「なにをなすべきか」に代表される「民主主義なき中央集権主義」を民主主義的に発展させた文脈の中でとらえるべき、という藤井一行氏の主張(『民主集中制と党内民主主義』、青木書店)や、「一九〇五年のレーニンにとって、また実際当時のいかなる社会民主主義者にとっても、民主主義的中央集権制は、内部的に団結した党における民主主義的手続の採用についてのよびかけ以上のものを意味していなかった」とするマイケル・ウォーラーの主張(『民主主義的中央集権制――歴史的解釈』、青木書店)を援用し、民主集中制の「民主主義的」意義を積極的に評価しようとした。
また私は、民主集中制を放棄した組織運営が多くの場合、「官僚主義・上意下達主義反対」というタテマエとは裏腹に、きわめて独断的・恣意的な「有力者」による「専制」傾向の強化や、意見の相違がストレートに構成員の当該組織からの離脱や、組織そのものの解体を導きだす結果に帰結しがちである、と述べた。以下、引用する。
「好き嫌いにかかわらず『組織』(党であろうと大衆団体であろうと)は個々の構成員をその組織に統合し、対外的にもその組織意思を明確にしていくために『集権』的要素を持たざるをえない。組織が一定の目標を掲げた政治的・社会的実践の道具である以上、その組織は構成員の意思を集団に統合し、外に向かって表現していく集中的機能を持つ」。
「意見の相違を理由にして、組織的意思の決定それ自体を原則的に排除しようとするならば、その組織は存在意義を失う。組織が組織である以上、何らかの意思決定は行われるのであり、決定に至るルール、規約は不可欠である。問題は、いかにその規約、ルールが専断や恣意を排して、構成員の同意と承認にもとづいてなされるのか、という『民主主義』にかかわっている」。
私はさらに、同論文の中で多くの非党派的・無党派的組織・運動の中でも、経験・知識を持った人格によるイニシアティブが、おうおうにしてボス的権威による支配へと転化し、それを統制するメカニズムを持ちえないことで、少数専断の組織運営に陥る傾向が強いと指摘した。こうした傾向は当時からすでにもてはやされていた「横並びのネットワーク型組織」によっても決して解消されないのである。
「問題は、組織構成メンバーの民主主義的『主権』――決定への主体的参加、指導・調整機関に対するコントロールと自由な批判を通じて、各構成員が組織に対する『責任』を貫くことを不断に念頭に置いた現実の運営システムを検討していくことであろう。システムは可変的である。しかし同時に必要なことは『組織意思の決定』に関与し、それを変更・チェックする権利を原則上いかなる時にも保証することでなければならない」「『組織意思の決定』が常に求められている以上、そこには『民主主義』が貫かれていなければならない。民主主義には情報の公開と、討論に必要な時間と、多数意見が組織の意思となること――すなわち『多数決原理』が前提条件となる」。
私は、この論文の中で「多数決原理」に限定が付されるべきことをも指摘した。すなわち組織の多元性を保証するためには、マイノリティーの権利の保証と「自治」がふくまれなければならず、マイノリティーの「自治」は「多数決」への拒否権を必要とするからである。しかし同時に、こうしたマイノリティーの「自治」もふくみつつ、多数の意思が組織の意思となるメカニズム=「多数決原理」は、「少数派」が「多数派」に変わるプロセスを保証する「党内民主主義」の原則にとって不可欠なのである。
どのように民主主義を保証するか
以上が、私の十三年前の「民主集中制」論文の大ざっぱな要旨である。最初に述べたように、私はいくつかの補充を行った上で、この論文の「民主集中制放棄反対」の立場を保持している(この論文はかなり古いものなので、すでに手元になかったり、そもそも存在すら知らない若い同志や読者も多いだろう。できるだけ早期に「かけはし」ウエブサイトでアクセスできるようにする、などの方法で読めるようにしたい)。
JRCLの規約(一九九六年四月、第17回大会採択)は、「3 同盟の組織原則」の項で、「規約と財政および統制・除籍措置に関する大会と中央委員会ならびに単位組織の総会または委員会の決定はすべての同盟員を義務的に拘束する」が、「それ以外の行動にかかわる決定……に対する反対意見者はその遂行について協力するよう要請されるが、決定は反対意見者を義務的に拘束するものではない」と、決定された行動への「不参加の自由」を保証している。
また第四インターナショナルの国際規約(二〇〇三年二月、第15回世界大会決定)は、「第1章 支部組織」の2項で「支部組織は、その自由意思に基づいて、インターナショナルによって決定される政治路線を自らの政治的実践に組み込む。各国支部は、資本主義と帝国主義に反対する立場を踏み外さない限りにおいて、独自の反対意見を公然と明らかにすることができる。しかし第四インターナショナルの支部組織は、インターナショナルの指導機関によって採択された決議を公表しなければならない」としている(『社会主義へ、新しい挑戦――第四インターナショナル第15回世界大会報告決定集』に収録)。これは、インターナショナルの個々の政治方針が各国支部組織の実践を拘束するものではないことをうたったものである。
このような形でわれわれは、「民主集中制」による「多数決」での決定が、反対派を義務的に拘束するものではないことを規定している。それは「批判の自由」を行動面で担保するものであり、こうした措置は民主主義の拡大にとって必要なことであろう。
ところで、新しい社会運動の模索の中から導き出された「リゾーム型組織論」について言えば、私は前掲論文で挙げた「無党派」的・市民運動的な「ネットワーク」型組織論への危惧が、あてはまるのではないかと考えている。
「多元的・水平的・根茎的」なものとされる「リゾーム型組織」論は、反グローバリゼーション運動を中心にした今日の社会運動の、差異を積極的にふくんだ多様性が収斂されていくあり方の現実的表現であるといえよう。しかしそれが革命党(ここでは、諸潮流の存在を前提にした複数主義的党を想定している)に適用された場合、その構成部分の中での、必要となる「集団的意思」の形成をどのように民主主義的に保証しうるのだろうか。その運営がきわめて恣意的・専断的なものとなることを避け、構成員の「集団的意思」を形成していく責任ある統制と信頼の関係がいかに機能していくことになるのか。
木畑壽信は、本書の第6章「言語の政治におけるNAM・世界社会フォーラム組織論評注」の中で、まさにこの「リゾーム型組織論」を「新しい型の党」に適用している。興味深い問題提起であり、「机上の空論」として一蹴するつもりはない。しかし世界社会フォーラム運動は、決してそれ自体「新しい型の党」へと転化するものではない。社会フォーラム運動の担い手は、そもそも自らが「党」となることを認めてはいない。ここでも作られるべき「党」と現実の「運動」との峻別にもとづく連関が必要なのであり、後者を前者に代行させることは、セクト主義にほかならないのである。
そしてまた「リゾーム型」あるいは「ネットワーク型」の組織も「組織」であることに変わりはない。「組織」はその内部と外部に対して、自らの「意思」を表現しなければならない。われわれにとって必要なことは、現実のきわめて多様性を帯びた運動の中で、「共同」と「責任」を自覚的に引き受けようとする営為の中から、革命をめざす党組織の実際の運営と意思形成の民主主義的方法を検証していくことでなければならない。私は、その際、民主主義にとって「集中」の契機は、決して排除できないと考えるのである。
最後に付け加えれば、本書にはまったく言及されていないが、この「リゾーム型組織論」は、「権力をめざさない運動」論と密接に関連しているのではないか。私はすでに本紙で「権力をめざさない運動」の誤りについては幾度も批判しているが、この問題についても今後改めて取り上げる必要があるだろう。(平井純一)
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