『トロツキー研究』第40号トロツキー研究所発行/
発行 柘植書房新社 2000円 かけはし2003.7.21号より |
本号は、一九二〇年代、ロシア共産党内のスターリニズムの抬頭に抗してトロツキーを先頭とした左翼反対派の闘いをメインテーマに、第一回目として「新路線」論争(二三年十月から十二月)をクローズアップしている。
ボルシェビキ党10回大会をめぐって
前提的な認識として、ソヴィエト・ロシアの一九二〇年から二一年にかけた内戦後は、いかなる状態だったのかを押さえておかなければならない。当時ロシアは、農業と工業の破局的な低生産によって慢性的な物資欠乏と飢饉状況に追い込まれていた。だからこそレーニンやトロツキーをはじめボルシェビキたちは、全国的な荒廃状況から立ち直ることをめざして二一年の第十回党大会でネップを選択し、大工業、銀行、輸送機関の国有化を維持した上で、余剰農産物の取り引きの自由、手工業、商業、小規模な私的工業の復活をめざしたのである。
さらに、この大会でレーニンは、党内分派を禁止する「党の統一について」と労働者民主主義を強調した「党建設の諸問題について」を採択させた。党内分派の禁止は、当時、クロンシュタットの反乱やタンボフの農民反乱などの諸事件の頻発に対して党的結束を強化し、断固とした対応を構築していくことが求められていたため、一時的かつ過渡的手段として選択せざるをえないと判断されたのである。労働者民主主義の強化については、党決定への参加と下からの統制、機関の選挙制、任命制撤廃、報告責任制などの措置が打ち出された。
はびこる官僚主義に抗する闘い
しかし、労働者民主主義の諸措置と実行は実態的には棚上げされてしまった。それはなぜなのか。そして、どのような結果を生み出したのか。客観的な根拠としては、生産力の低水準と物的欠乏、帝国主義干渉戦争と内戦による最良の労働者階級の減少と疲弊、世界革命の後退の中で革命の孤立によって労働者階級に政治的受動性が発生し、それを基盤とする自己保身的な官僚層が大量に形成されつつあったことなどを上げることができる。
また、党内分派の禁止決定は、官僚主義とスターリニズムが勝利するための根拠を提供してしまった。テルミドールは確実に動き始め、スターリンはその上昇気流に乗ることを通して党内影響力を強めていった。第十一回大会(二二年)でスターリンは、書記長に選任されるまで昇りつめ、スターリン派を組織化していった。
国家と共産党にはびこる官僚主義の巨大化という重大な局面で、レーニンは一九二二年五月、病に侵され闘病生活に入る。この間、政治局多数派=スターリン派は一挙に書記局の統制権限の拡大と有利な人事配置を推し進め、トロツキーと支持者に対する排除策動を強化していった。
十月に党務に復帰したレーニンは、このようなスターリン派の危険性を察知し、遅すぎた「最後の闘争」に入っていった。しかし、病魔は深刻化し、二三年三月六日に再び倒れてしまった。病床の中からレーニンは、第十二回大会に向けてスターリン派を批判の対象とした「われわれは労農監督部をどう改組すべきか」論文、党の官僚主義を批判し改革をめざした「量は少なくても質のよいものを」論文を口述で完成させていった。スターリン派は、レーニンの「プラウダ」への論文公表要求に対して抵抗したが、それでも抵抗しきれないと判断するや「プラウダ」特別号を一部だけ作ってだまそうとした。この陰謀は、トロツキーの反対によって阻止された。だが、このような陰謀的手法がスターリン派の常套手段となっていくのだった。
46人の声明と左翼反対派の成立
トロツキーを先頭とする左翼反対派の激烈な党内闘争は、どのように押し進められ、いかにスターリン派によって反撃され、「新路線」論争が敗北したのか。第一の激突は、スターリン派による革命軍事会議への参加決定だった。この決定に対してトロツキーは、「任命や解任や交替などが明白に党内的思惑によってなされている」と厳しく抗議し、スターリン派との闘いをしだいに決意していく(10月4日付中央委員および中央統制委員への手紙」)。
そして、第一の書簡政鋼(10月8日)で@計画経済、工業の厳格な集中、工業生産物と農業生産物価格の鋏状価格差の縮小などの経済政策の提起A書記局ヒエラルキーと党内民主主義の抑圧などに対する批判を展開し、本格的な党内闘争を開始する。続いて、プレオブラジェンスキー、ブレスラフ、セレブリャコフなど四十六人は、政治局多数派を真っ向から批判した声明を発表する。左翼反対派の成立である。
政治局多数派は、トロツキーの手紙と四十六人の声明に対して「分派の組織化に公然と着手」「民主主義をもてあそぼうとしている」などと規定し、あげくのはてにトロツキーの「野心と権力欲の現れ」と中傷する(10月19日)。これに対してトロツキーは、ただちに政治局による批判に対して反論した。これが第二書簡である(10月23日)。
政治局多数派は、このトロツキーや四十六人の批判を秘密に処理しようとしたが、党内批判の高まりによって失敗し、公開論争に踏みらざるを得なくなった。この全党論争は、政治局多数派の政治的マヌーバーであったが、労働者民主主義を再確認した「党建設について」の中央委員会決議へと結実した(12月5日)。そして、労働者民主主義の歪曲の危険性を訴えるためにトロツキーは、「新路線(党の諸会議への手紙)」(12月11日)を送り、プラウダに発表させたのだった。
だが、政治局多数派は、トロツキーの新路線に対して猛烈な反撃を開始する。それは、十二月三十一日の政治局多数派の回答を見ればわかるように、それは個人攻撃のレベルを超え、「反レーニン主義」とレッテルを張り、明確に排除の論理を貫徹させようとする意志の現れであった。
結局、翌年一月の中央委員会と全党協議会は、政治局多数派による左翼反対派に対する糾弾と排除に貫かれ、「勝利宣言」が掲げられた。とりわけ協議会での「討論と小ブルジョア的偏向について」と題する決議は、排除の論理を集約的に表現するものだった。その後、レーニンの死によってスターリン派の攻撃は一時的に中断するが、一年後さらに激化していくのであった。その実態は、次号に続く。
このように本号に所収された一連の手紙と決議は、トロツキー派とスターリン派の党内闘争の展開をリアルに把握させてくれる。左翼反対派の闘いは、スターリニズムの総括にとって絶対に欠かせない。ロシア革命後の六年間、どのような状況下でトロツキーは左翼反対派を結成せざるをえなかったのか。その真実をたぐりよせ、その教訓を現在的に生かしていくことがわれわれの任務である。なお本書と合わせて『トロツキー 新路線』(藤井一行訳、柘植書房)を学習していただきたい。 (Y)
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