もどる

投書                         かけはし2003.2.3号より

国の名称をどう表現するか

たじま よしお(長野)

 朝鮮民主主義人民共和国のことを私は「共和国」と表現することにしているのだが、その度に違和感を感じてしまう。正式名称についていえば韓国は「大韓民国」、中国は「中華人民共和国」、米国は「アメリカ合衆国」、英国は「大ブリテン及び北アイルランド連合王国」が正式名称であるが、英国のそれなど知っている人などまれではないのか。
 一月二十七日の「読者からの通信」の「北朝鮮という呼び方は差別主義だ」を読んで、私は篠原さんとはまるで逆のことを考えていることに気づかされた。マスコミはその冒頭で、北朝鮮とは言わず正式名称をいって次から北朝鮮という言い方に替えている。これはかなり異様であるがその異様な様は、私が「共和国」と表現していることとどこか共通している。マスコミのそれはかの国への恐怖感からきているのかもしれないのだが、私の場合は「俺は他の連中とは違うんだぞ」というエリート意識が根底にあるのかなと、自己分析しているこの頃である。
 朝鮮半島の民族問題にこだわっている人達は「北韓」「南韓」という言い方をしているが、そういうのも「あり」かという程度に受けとめるという風に、自分自身軌道修正を余儀なくされている。職場で上役が年下の部下を呼び捨てにして、己の威を示そうとするなどは許し難いものを感じるが、そのことにこだわってゆくと儒教精神みたいなあやしげな世界へ迷い込んでしまいそうで危ないなあと思う。
 その「呼び方」などというものは○でも□でも、要は相手に意味が伝わればいいじゃないかと、一旦肩の荷を下ろして自分自身を楽にしてあげることも時に必要ではないかと思う。篠原さんの文章を読んでいると、ものすごく肩に力が入っていて「肩凝り」を感じてしまう。その「肩凝り」は篠原さんの永年の社会主義を目指して闘ってこられた歴史を物語っているものと思われ、ついこの間このことに興味を持ち始めた私などの口のはさむ隙間もないのだが、痛ましさを感じてしまうのだ。
 その痛ましさは己に向かうのみならず、他者をも恫喝する不条理をも内包しているのを感じる。篠原さんは「中華人民共和国」に関しては中国と呼ぶことに違和感をお持ちではないようだが、何ゆえに「北朝鮮」という呼び方にのみかくもこだわるのか、私には理解できない。篠原さんの無実の死刑囚救援活動を永年お手伝いさせて戴いている私が「かけはし」紙上で議論するなど、お互いに不本意なことではあるが問題の共有化ということでお許し願いたい。
 当座の私の結論は、相手国の政府機関へ親書など出す場合は常識的な儀礼の意味で正式名称をつかう、それ以外の場合は意味が通じればそれでよしということでどうだろう。ただし「馬鹿」だの「チョン」などという明らかな差別は論外である。   (1月27日)


もどる

Back