金持ち・企業減税、失業手当削減、不安定雇用促進と賃下げ、医療・年金改悪、欧州軍設立 |
パウル・B・クライザー
社民・緑連立政権が成立して五年、ドイツはいまも深刻な不況の中にある。その中で社民・緑政権は「福祉国家改革」をかかげた「アジェンダ二〇一〇」を打ち出した。それは「自己責任の強化」をかかげて社会保障の国と企業の負担を削減し、不安定雇用を拡大し、失業給付期間を大幅短縮し、医療保険を改悪するという、ブレア政権と同様の新自由主義に貫かれたものである。時短ストの敗北を超える新たな抵抗が始まっている。
ヘルムート・コールのリベラル・保守派政府は特にその最後の時期は「鉛の時代」と言われたが、コール政権が十六年続いた後の一九九八年秋の選挙での社会民主党と緑の党の連立の勝利は、とりわけ労働組合にとってある種の楽観的雰囲気を作り出した。彼らの言葉を信じるなら、社会民主党は「社会的正義」を維持したままドイツを「近代化」することを望んでいる。記者会見で社会民主党の新首相シュレーダーは「われわれは社会的保護の現在のレベルと市場のより良い活用を調和させたいと望んでいる。われわれは別のやり方をするというのではなく、もっとうまくやりたいのだ」と語った。
政権初期の蜜月期間中に、新政権はいくつかの改良を通過させ、旧政権の反改良をいくつか廃止した。もちろん被雇用者に有利な根本的政策ではないが、年金や社会的手当てに関するいくつかの改善があった(たとえば、入れ歯の費用は再び払い戻されるようになった)。環境に関しては、エネルギー消費の削減を狙いとしたエコロジー税の導入が歓迎された。しかし、政府内の、シュレーダーおよびフィッシャーに率いられた新自由主義派とラフォンテーヌに率いられた新ケインズ派の間の緊張は、ラフォンテーヌにとって屈服するか政府(および彼が委員長をしている党)を辞めるか以外の選択肢がなくなるところまで悪化した。
このとき以来、すべての政府の政策は、「国の立場」の防衛と「供給」の強化の新自由主義的ロジックに従うようになった。
b減税は、最も富んだ人々と大資本に有利なものになった。最高所得層の税率は五三%から四八・五%に下げられ、間もなく四二%になる予定である。一方、企業の利潤に対する税率は、四〇%から二五%に下げられた。
b年金改革は、第一次シュレーダー政府の労働大臣であったIGメタル労組の元ナンバー・ツーの名前を取って「リースター年金」と呼ばれているが、結論は国が支援する部分的民営化と分配システムの部分的放棄となった。
b「失業に対する闘い」の中で取られた対策によって、失業者に自分たちの状況の責任を負わせることになり、事実上失業者に仕事に就くことを強制できる状況が導入された。
b新しい移民法は、初めてドイツが移民の国であることを認めたが、移民に留まる権利を許すかどうかについては、国の利益を唯一の指針とした。同時に、国外退去者の収容所や牢獄を設置することにより、「望ましくない」移民に思いとどまらせる対策も強化された。
b欧州軍設立の枠組の中で(現在のところは、フランス、ベルギー、ルクセンブルクとともに)、連邦軍を緊急配置部隊に転換する努力が行われている。すでに、保守派の国防大臣の「白書」の中で、大ドイツの利益は世界中に存在し、とりわけドイツが必要とするすべての原料供給地域に存在すると規定されている。現在の連立政権は、このアプローチを継続している。
これらの対策も、ドイツが二〇〇一年第2四半期以降、景気後退に滑り込むのを阻止することはできなかった。二〇〇二年には、この年は選挙の年であったが、控えめな成長〇・二%を記録した。景気回復が遅れたので、すべての世論調査は「赤と緑」の連立の敗北を予想していた。
大部分のドイツ人が感じた対イラク戦争の脅威と戦争の恐怖が、シュレーダーが世論調査の結果を回復することを可能にした。ブッシュの計画に対してシュレーダーが断固として反対したことで、彼の人気は回復した。それだけでなく、旧東ドイツ南部の深刻な洪水がシュレーダーに指揮官を演じるチャンスを与え、多数の東の人々の好感を勝ち取ることを可能にした。これらがすべてマスメディアによって巧みに編曲された。マスメディアの使い方にかけてはシュレーダーは達人である。シュレーダーとフィッシャーのチームは、最終的に約一万三千票の差をつけて選挙に勝利した。
選挙後も、公約の景気回復は依然として実現していない。ドイツ経済は依然として不況の中にあり、二〇〇三年の成長率はほとんどゼロである。この文脈の中で、政府の政策による支援を受けた資本家の、賃金(直接賃金と間接賃金、すなわち社会保険料)に対する攻撃が賃金労働者と失業者に対する圧力を強めた。またこの経済情勢が、新しい減税政策の主要な理由にもなった。この政策は(理論的には)補助金の廃止をもたらすはずであったが、実際には公的負債(連邦国家、州、自治体)の爆発的拡大をもたらした。公的負債はすでに一兆三千億ユーロに達していた。
赤と緑の連立政府が採用した「改革」政策を要約して、二〇〇三年三月十三日、連邦議会でシュレーダーは次のように述べた。「われわれは国の手当てを削減し、個人の責任にゆだね、皆にいっそうの努力を求める必要がある」。首相の見解では、ドイツでは労働は高価になりすぎており、「第二賃金」(1)が高すぎ、経済の困難な状況の「構造的原因」になっている。実際には、これらのコストは大量の失業とドイツ統一の結果である。東ドイツ資本主義の土着産業の破壊の過程で、二百万〜三百万人が仕事を失った(2)。
アジェンダ二〇一〇は昨年の「ハーツ提案」(3)の急進的改定版である。旧バージョンで首相は失業者を二百万減らすと主張していた。ハーツ委員会の提案の核心は、各地区に人事サービス機関(PSA)を、可能なら民間ベースで設立することであった。民間セクターに関心が欠如している場合は「労働局」(ANPE)が責任を持つ。
PSAが最大限の失業者を「臨時雇用」ベースで「雇用」し、企業に貸し出す。うたい文句は、二〇〇五年までに七十八万の仕事を「作り出す」というものである。シュレーダーは連邦議会で次のように語った。「われわれは臨時の仕事を官僚的規制から開放し、再評価し、企業が質の高い人材に対するニーズを柔軟に満たせるようにした」(4)。
ハーツ委員会提案の第二の側面は、割引価格で仕事を設定したことである。雇用者側は賃金が四百ユーロ未満の場合は社会保険料と税金の本質的部分を免除され、賃金が四百ユーロから八百ユーロの仕事の場合は減額された社会保険料のみを支払う。自営労働者になりたい者や小企業を設立したい者は「わたし株式会社」(Ich-AG、なんという命名か!)を設立することができ、所得が年間二万五千ユーロを超えない場合は、失業手当を要求しないことを条件として、一年目は毎月六百ユーロ、二年目は三百六十ユーロ、三年目は二百四十ユーロを受け取る。これらの対策によって政府は五十万の仕事を作り出したいと考えている。
この政策によって、低賃金の不安定労働セクターが作り出されるだろう(あるいは既存のセクターが大きく拡大するだろう)。これはアメリカで「労働貧民」と呼ばれている、労働所得では生活できない労働者である。また、この政策の狙いはドイツにおける労働の平均コストを引き下げることであるが、雇用者に対して社会保険料拠出を免除することにより社会保険基金の危機を悪化させる。
アジェンダ二〇一〇は、失業者に対するいっそう直接的な攻撃でもある。これまでは、最大三十二カ月間失業手当(純賃金の五八%)が支払われていた。今やこの期間は、五十五歳未満は十二カ月、五十五歳以上は十八カ月になる。この処置によって失業者は総額三十八億ユーロを失うことになり、年間一人当たり最大一万四千ユーロの減額になるだろう。
失業期間一年後は、ドイツAPNE(労働局)は通常、必要に応じて手当(失業援助)を支払うが、その限度はレイオフされる前の純賃金の五三%である。今や、長期失業者は最低所得(RMI、単身者五百六十ユーロ、夫婦九百二十ユーロ、ただし地域的変動あり)しか受け取らないことになる。約百八十万人が手当てを失い(年間総額約三十六億ユーロの減額)、失業者の三〇〜四〇%がもはやカバーされなくなるだろう。
医療手当ての減額は、アジェンダ二〇一〇のもう一つの側面である。この分野の赤字は年間三十五億ユーロの規模に達しており、このことが社民党保健相ウーラ・シュミット(元毛沢東主義者)と、CDU/CSU(キリスト教民主同盟/キリスト教社会同盟)の専門家で元保健相のホルスト・ゼーホッファーの間で、医療支出の二百億ユーロ削減を追求する交渉を行う口実になった。この提案は入れ歯の払い戻しを停止することを意図しており、六週間を超える医療費支払いの維持を困難にし、民間保険の市場を開くものである。
元社会民主党財務相で現在はスイスのサンガル大学学長のペーター・ゴルツは、アジェンダ二〇一〇について「ポストモダン」社会民主主義ビジョンであると定式化し、次のように述べた。「技能の社会は、多くの人々を近代的仕事から意識的に排除する社会として現れる。……われわれは長期的には新しい社会的下層階級が存在する社会で生活しなければならない。それは、高度の技能を必要とする仕事に就くことができない、あるいは努力を必要とする仕事を受け入れることができない階級である」。
連邦政府が発表した最初の貧困と富に関する報告書は、一九九〇〜一九九八年の期間に関するものであるが、それによれば、「一九九八年までのドイツにおける発展の分析は、社会的排除が拡大し、再分配の公平性が低下していることを示している」(5)。この時点においても、赤と緑の連立政府は依然として「われわれのグローバル戦略の不可欠の一部としての、社会的排除と不適切な支援に対する闘い」について語っていた(6)。
「変化を恐れぬ勇気」を語ることにより、アジェンダ二〇一〇は言葉と実践の間の距離を暴露している。この距離は、オーウェルの(「一九八四年」の)「ニュースピーク」から直接借りてきたような用語法に示されている。賃金労働者の負担の増大は「個人の責任」と呼ばれ、社会手当ての減額は「より多くの仕事にむけての刺激」、金持ちへの減税の贈り物は「投資家への奨励」、不安定労働の拡大は「労働市場の柔軟性」と呼ばれている。
一九七三年以来、失業率は労働力の一・二%から一〇%以上に増大した。百八十万人以上の失業者が一年以上仕事についていない。失業者の三分の一は欧州連合の基準に従えば貧困状態にある。すなわち、平均所得の五〇%未満の収入しかない。一九七四年以来最低所得で生活している人々は西では四倍、東では一九九三年以来二倍になり、二百七十万人に達している。そのうちの百十万人は十八歳未満である。すべての調査が、青年の排除が将来にとって深刻な意味をもっていることを示している。
三月十四日のシュレーダー政府の宣言の後、八人の社会民主党国会議員が党員投票の組織化を求める署名集めを開始した(党員投票には党員の一〇%、六万七千の署名を必要とする)。彼らは「わが党の将来に対する懸念」を表明するとともに、同時に「SPDとわがシュレーダー首相が率いるわが連邦政府」を支持し、党の公式政策に反対して要求を次のように表現した。
「われわれは生活のリスクの民営化に反対する。失業手当や最低所得の削減や医療手当てに対する脅威は反社会的であり、消費の危険な後退をもたらすだろう。支出の削減を唯一の道として公共予算を改善するのでなく、われわれは大資産家に課税すべきである。われわれは大資産家に対する課税の再導入を支持する。われわれは金持ちへの減税に反対し、所得税の最高税率帯の税率削減に反対する。われわれは低・中所得層の需要を刺激し、個人需要が局面を支え仕事を作り出すようにする必要がある。賃金労働者の権利は障害ではなく、生産性の高い良質の仕事の前提条件である。……強力な労働組合はわれわれにとって経済生活の不可欠の一部であり、これを否定することはできない」(7)。
党指導部はこれに直ちに反応し、ベルリンにおいて臨時大会を召集した。この大会はよく準備され調整されたものであった。会場のいたるところに「未来へのわれわれの道、アジェンダ二〇一〇」や「アジェンダ二〇一〇は成長と仕事のための社会民主主義的プログラムである」といったスローガンが掲げられた。大会は首相や政府チームの発言だけでなく反対派の発言も拍手で迎えた。大部分の代議員は、批判派も含めて、首相の立場を弱めるべきでないことを強調した。最終的には、批判にもかかわらず、代議員の約九〇%がシュレーダー・チームの提案に賛成投票をした。二万の署名を集めた小さな反乱は霧消した。
緑の党でも実質的に同じことが起こった。新自由主義に向かう傾向は小さな組織された反対派に遭遇したが、不満を抱いた個人は党を去った。
ドイツのすべての政党は現在党員数を減らしているが、SPDはその先頭に立っている。
ドイツの統一と旧東ドイツの公式労働組合のDGB(ドイツの労働組合連合)(8)への統合により、東の征服に協力するために招かれた西ドイツ労働組合は当初は影響力が拡大した。労働組合指導部は東ドイツ産業の解体もトロイハントが作成した民営化プログラム(9)も批判しなかった。統一後のブームは賃金上昇をもたらし、労働運動と社会全体の中に「国民的幸福感」を作り出した。労働組合は東の労働組合との融合によって大量のメンバーを勝ち取り、組合員総数は千百万人を超えた(その後その三〇%近くを失った)。
その後、通常の資本主義がやって来た。一九九三〜一九九四年の危機と雇用者側からの攻撃である。労働組合指導者はこれに対してまったく準備ができていなかった。IGメタル委員長クラウス・ツビッケルは雇用者側と政府に対して「仕事のための同盟」を提案した。すなわち、雇用者側がもっと多くの労働者を雇うなら労働組合は賃上げ要求を出さないというものである。
しかし、経営者側にとっては、これらの提案は常にそれ以上の要求の誘いであり、とりわけ社会的手当ての大幅削減により四〇%の障壁以下に社会保険料を削減するチャンスである。コール政府は雇用者側の提案に同意し、それらの立法化を開始した。その後、労働組合はこの有名な「同盟」を放棄して政府に対する動員を開始した。これが究極的にはコール時代を終わらせる理由の一つになった。
シュレーダーの下で、すべてがもう一度始まった。最初はわずかな実質賃金引き上げの問題さえも、とりわけサービスの分野では具体的な協定が結ばれたが、新たな不況とともに新しい同盟は破綻し、労働組合はもはや「社会的パートナーシップ」のための対話者を失った。労働組合は社会民主主義に依然として忠実であり政府と一種の「労働の分担」を発展させ、赤と緑の連立政府の攻撃はほとんど抵抗に会わなかった。
このようにして、労働組合はほぼ二十年間臨時雇用に抗議してきたが、PSAに雇用された被雇用者が低賃金を受け取るという原則を受け入れる労働協約に署名した。労働組合は低賃金セクターの創出を助け、地域の労働協約をほとんど防衛しなかった。東ではこの種の労働協約が依然として有効な対象被雇用者は四〇%以下であり、この数字は永続的に低下している。二五%は企業別協約であり、三〇%は無協約である(西では、この数字はそれぞれ六〇%、一〇%、一五%である)。ドイツの二つの部分の差は依然として拡大しており、政治的文化の違いだけでなく、東では労働者階級のかつてない深刻なアトム化が存在している。
公式には、東では金属労働者は週三十八時間働き、これは西より三時間長い。現実にはさらに長い場合が多い。労働協約の破壊とドイツの二つの部分のこれまでにない大きな差に対して闘うために、IGメタルは東での三十五時間労働を要求してストライキを呼びかけた。
予想される雇用者側の圧力とマスメディアのプロパガンダの下では、これが大胆な企てであることは誰にも分かることであった。スト破りのトラックによる突入やヘリコプターの登場などのいくつかの事件があったが、ストライキは五週間近くは確固としていた。
しかし、長期ストライキは西の大手自動車会社フォルクスワーゲン、オペル、メルセデス、BMWの生産中断をもたらし、それがIGメタル指導部内部の対立をもたらした。マスメディアのキャンペーン、政府の圧力、IGメタル内の対立(ツビッケルとナンバー・ツーのユルゲン・ペーターの対立、ペーターはやがてツビッケルに取って代わる)によって、ストライキは放棄され、当然にも労働組合世界に大きな苦痛をもたらした。人々は労働組合官僚の一部によるストライキの裏切りについて取り沙汰した。
いずれにせよ、それは深刻な敗北であり、重い結果をともなった。それは将来の闘いに影響を与えるだろう。したがって、IGメタルが自己を真に防衛しアジェンダ二〇一〇の攻撃に対して動員することは、ほとんどありそうにない。ストライキの敗北と指導部内の闘争は、数千の組合員の脱退をもたらした。九月に臨時大会が召集されているが、組合が団結して新指導部を選出できるかどうかはまったく明らかではない。
IGメタルの将来とともに、サービス労働者の統一組合であるVERDIも、社会フォーラムの発展にとって大きな影響を与えるだろう。VERDIはドイツのほとんどすべての場所で結成され始めており、一般に新自由主義に対して、特にシュレーダー政府の政策に対して挑戦を始めている。
原注
(1) シュレーダーの言う「第二賃金」とは社会保険料のことである。ドイツでは平均して賃金の四二%で、雇用者側がその半分を支払う。現在の率では、年金負担が一九・五%、医療保険が一四・五%、失業保険が七・二%である。
(2) 一九九〇年以降のドイツ統一のコストは九千億ユーロと見積もられている。これは年成長額の一%以上である。
(3) ペーター・ハルツはウォルフブルグのフォルクスワーゲン労働者重役で、過去に何度かIGメタルと労働時間に関する妥協の交渉を行った。ニーダーザクセン州は、シュレーダーが首相になる前に知事をしていた州であるが、フォルクスワーゲンの株の四分の一を所有しており、フォルクスワーゲンはこの州の飛び抜けて最も重要な企業である。
(4) 「ソツィアリスムス」二〇〇三年第五号、二〇ページ
(5) 労働および社会秩序省監修「ドイツにおける生活状態」XVページ、ベルリン、二〇〇一年
(6) 前掲書、二一五ページ
(7)
www.mitgliederbegeheren.deを参照。
(8) ドイチェ・ゲベルクシャフツブントはドイツの労働組合連合。
(9) トロイハントは、東の企業および土地の民営化と売却を引き受けた国営の団体で、すでに役割を終えて解散している。
(「インターナショナルビューポイント」03年9月号)
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